先月は手の骨折のため予約していた「銕仙会3月定期公演」をキャンセルせざるを得なかった。今月は何としても見たくて、痛む手をかばいつつ出向いた。金曜日にもかかわらず会場はほぼ満員。熱気があった。おそらく人間国宝の野村四郎さんが『恋重荷』を舞われるということもあったからだろう。加えて片山九郎右衛門さんの出演もあったからだろう。でも驚いた。
そういえば「銕仙会」は元から週日が恒例だったのが、今は金曜日になっている。そんなこともまったく知らなかったのだけど、経緯を『観世寿夫著作集』第四巻中の「座談会『銕仙会』二百回に当たって」の章での寿夫さんのお話で知った。この座談会のソースが機関紙「銕仙」の1964年1月号だから、「銕仙会」の歴史が随分古いものだとわかる。元の成り立ち、そしてその後の在り方が、他のこういう演能団体と一線を画しているのは、「銕仙会」のオープンさにあったようである。そして何よりも観世寿夫さんの強いリーダーシップがそれをより可能にしたのだろう。「銕仙会」のサイトに入ると、以下のような解説がある。
銕仙会・銕之丞家とは
銕仙会は江戸中期の十五世観世左近元章のときに分家し、現在に至るまで能界に重きをなしている観世銕之丞家を中心とした演能団体で、近年は七世観世銕之丞雅雪の長男、観世寿夫を中心として、広く舞台芸術の視野から能を見直し、地謡をはじめ、ワキ方、囃子方、狂言方の全ての役を大切にすることで密度の高い舞台を実現し、高い評価を得ている。寿夫没後もその主張に基づき、従来の作品の演出的見直しを始めとして、現代に生きる演能活動を八世観世銕之亟静雪(人間国宝)のあとをうけた九世観世銕之丞を中心に続けている。
長い前置きだけど、これはどうしても外せない「銕仙会」の由来だろう。観能体験があまり多くないので断言はできないけれど、まずその観客の年齢層が多岐にわたっていること、そして比較的若い人が多いのに驚いた。今まで見てきた能公演では最も活気があった。なんと、前から三列目の上手という良席。すぐ前の最前列には村上湛氏の姿が。
そしてこの日の目玉(?)、『恋重荷』。これも「銕仙会」の「能楽事典」から引用させていただく。一緒にこの日の演者一同も。以下。
登場人物と配役
前シテ 菊守の老人 山科荘司 野村四郎
後シテ 山科荘司の霊 野村四郎
ツレ 白河院の女御 浅見慈一
ワキ 白河院の臣下 森常好
間狂言 臣下の従者 石田幸雄囃子方
笛 寺井久八郎
小鼓 曽和正博
大鼓 柿原弘和
太鼓 三島元太郎概要
白河院の女御(ツレ)を垣間見て恋患いとなった庭掃きの老人・山科荘司(前シテ)に対し、院の臣下(ワキ)は「庭に置かれた重荷を持って庭を何度も往復するならば姿を見せよう」という女御の言葉を伝える。荘司はそれを聞いて喜び、重荷に手を掛けるが、荷は持ち上がらない。悲嘆に暮れた荘司は、女御への怨みを抱いたまま亡くなってしまう。実はこの荷の中身は巌であり、荘司の思いを諦めさせるための方便だったのであった。荘司の死を悼む女御と臣下であったが、そのとき、まるで岩に押さえつけられたかのように、女御の体が動かなくなってしまう。そこへ荘司の悪霊(後シテ)が現れ、女御に恨み言を述べると、彼女を苦しめる。しかしやがて、荘司の霊は悪心をひるがえすと、女御の守護霊となって消えてゆくのだった。
昔からあった『綾の太鼓』を世阿弥が改作。観世流、金春流にのみ残る演目。これと類似の作品が『綾鼓』で、こちらは宝生、金剛、喜多流で演じられる。『綾鼓』は先日友枝昭世さんのシテで見ている(於大槻能楽堂)。
二つを比べて興味深かった。いずれも到底叶うはずもない「恋」がテーマ。それも二重の困難が伴っている。身分違いであることと、年齢違いである(老人の若い女への想い)であること。ただ、その不可能性を示すのに、一方は綾を貼った鳴らない鼓を、もう一方は老人では持ち上げることのできない重い(想い)荷を持ってきている。この違いに、作り手の意識の差を見てしまうのは読みすぎだろうか。
一言で言うなら、重荷の方がリアリズムに則っている。なぜなら、いくら重くとも若い男なら持ち上げることができたかもしれないから。他方、綾を貼った鼓は誰が打とうとも鳴らない。鳴らない鼓は、「恋」というものの普遍的な不可能性、もっと言うなら不条理を表象している。人間界において、恋は永遠に叶うことのない幻影の上に築かれる楼閣のようなもの。夢幻の中にようやく可能になる(なったかに錯覚する)幻影、それが恋。それを示すのが綾の鼓。ここで、なぜ三島由紀夫が彼の『近代能楽集』に『恋重荷』ではなく『綾鼓』を採ったのかに思い至った。リアリズム要素を極力排したのだ。
そしてこの日の舞台。私はこの舞台に置かれた重荷にかなり抵抗感があった。どうしても綾鼓と比べてしまう。重荷は美しくもなければ、こちらの想像力を掻き立てもしない。かなりの異物としてそこにある。形而上学的な能舞台の異物として。そのリアルさに、まず目がいってしまう。
野村四郎さんはこのリアリティをできるだけ軽減するように演じられていたと感じた。リアルな存在として舞台に置かれている重荷。それを持ち上げることができない老人。この対峙を、そしてそこに生まれる悲嘆を、大仰な所作を抑えて、ごく淡々と演じられたように思う。悪霊になってからも、自らの猛烈な怨みを大きな所作で表さない。それによって、より老人の悲しみだけでなく、彼の(赦しの)優しさを描くことができているように感じた。だから、老人が最後には女御の守護霊になって消えるというのが、納得できる。
演者としてはこちらの作品の方が『綾鼓』よりも演じるのが難しいだろう。さすが人間国宝の野村四郎さん。ごくさらりと、しかも夢幻能の余韻を残しながら演じきられたのには、本当に感じ入った。