以下に公演チラシ画像を。素晴らしいお能だった。
杉浦豊彦さんがシテの能は今年5月の『小鍛冶』(於姫路城薪能)以来。あんなに躍動的な霊狐のシテだったのに、すっかり忘れていて(イヤですね、歳を取るのは)、ほんとに恥ずかしい。思い返せば、確かに同質の雰囲気を纏っておられた。『山姥』のシテも山姥という鬼女なのに、どこか軽やかで初々しい雰囲気だった。もっとも感銘を受けたのがその謡方。バイブレーションのかかった謡は観世寿夫さんのそれを思わせた。でも系譜で見るとまるで違うよう。豊彦さんの師は片山九郎右衛門さんのお父上の幽雪さんと観世左近さん(となっている)。観世左近さんがどんな芸風だったのか、残念ながら私には知る由もないが、幽雪さんならなんとなくわかる。というのも幽雪さんは観世寿夫さんと共に「冥の会」の活動をしておられたから。現在の観世宗家、清和氏の能とはまるで違っているし、やはり豊彦さんの芸は幽雪さんからのものだろう。
何回か宗家の舞台を観たけれど、どこにも豊彦さんとの共通点はなかったような。まだまだ能観劇では駆け出しの部類なので、断言できないのではあるけれど。
一応、『山姥』の概要を例によって「銕仙会」のサイトからお借りする。以下。
山中に棲んで山めぐりをするという鬼女「山姥」。その様子を歌謡にして謡う女性芸能者・百万山姥(ツレ)が、従者達(ワキ・ワキツレ)を引き連れて山中を進んでいると、急にあたりが暗くなってしまう。一行が途方に暮れていると、そこへ一人の女(前シテ)が現れ、自らの庵室に案内する。女は、百万山姥の謡う山姥の謡を聴きたいと所望し、自分こそ本当の山姥であると明かす。恐れをなす一行に向かい、女は「今夜月光のもとで真の姿を見せよう」と告げ、姿を消してしまう。
その夜、真の姿を現した山姥(後シテ)。山姥は、邪正一如という禅の真理を説き、人間も山姥も本来隔ては無いのだと告げ、百万山姥の謡に合わせて舞う。山姥は、山めぐりする自らの姿を見せると、輪廻を逃れ得ぬわが身を嘆きつつ姿を消すのだった。
『鵺』がそうであるように、能楽黎明期の役者のあり方についての生々しい情報がこの中に詰め込まれているような気がする。能に携わるものは「異形」の者として捉えられていたことがわかる。と同時に、それを冷静にみていた世阿弥に驚かされる。華やかな芸能の世界に必ずやその裏がある、それを冷徹に受け止めている世阿弥。芸能者が必然的に担っている正、それと相携えて在る負。この負を手懐け、生きてゆくには禅の力を借りざるを得ない?この作品は世阿弥の晩年の作品?
さまざまな解釈を許しつつ、山姥は舞う。そこに展開する世界は諦観の宇宙。でも舞っているシテはやはりかっての優雅な姿を彷彿させる。この矛盾の中に観客を取り残して能は終わる。余韻は残るのだけれど、その後味はどこか爽やか。爽やかというのが言い過ぎなら、どこか腑に落ちる。納得できる。
この日の演者一覧は以下。
シテ 杉浦豊彦
シテツレ 大江泰正
ワキ 小林努
ワキツレ 岡充
アイ 茂山逸平大鼓 井林清一
小鼓 曽和鼓堂
笛 森田保美
太鼓 前川光範後見 大江広祐 大江又三郎
地謡 金子昭 山本勝範 深野貴彦 松井美樹
浦部幸裕 浦田保浩 井上裕久 浅井通昭
シテツレ、ワキ、ワキツレ、それにお囃子方、全てがプロ中のプロで、素晴らしかった。