延々8時間に及ぶ長丁場。ここ数日熱があり体調不良で、今日も観劇は無理かと懸念した。朝8時過ぎに家を出て、なんとか11時開演に間に合った。ただ宿泊は諦め、半分のところ(午後3時すぎ)で退出。最後まで見ていないので、批評は憚られるのだけど、一応心覚えのつもりで書いている。
タイトルとその構成から、ギリシア悲劇と能とのハイブリッド形態の芝居だったような印象を受けた。朗読劇の形式を採っているのは、能の謡を模している?謡はよくギリシア悲劇のコロスと比較されるけど、クローデルはそれを人物による朗読(reading)で表したように思う。それ以外で「能」形式を採用したと感じたのは、ストイックなまでに簡素な舞台装置。三段に組まれたステージ、そのステージの壁面上に映像(といってもアブストラクトなもの)が映し出される。この極限にまで最小化された舞台は、明らかに能を採り入れたものだろう。
それと逆照射という形での発見があって、ちょっと興奮した。第一幕(1日目)が、三島由紀夫の『サド公爵夫人』を連想させる人物設定とその会話だった。デジャビュ感があった。『サド公爵夫人』のサドとその夫人ルネとの関係がこのこの作品の主人公、プルエーズとカミーユのそれと被った。とはいえ、『繻子の靴』が書かれたのは1925—1929年にかけて。となると、こちらが本家(本歌)で『サド公爵夫人』が本歌どりをしたということ?何か不思議な感じ。ルネがサドと直接に会話する場面はない。でもプルエーズとカミーユ夫婦の緊張感あふれる会話を聞いていると、ルネとサドとのそれがまさにそれだったのではと感じた。これは私にとってはかなりの収穫。たまたま似ていたのか、それとも、三島が参考にして採り入れたのか。
また、もう一点の共通点が。主人公の剣幸さんが渡邊守章氏が演出した『サド公爵夫人』では主人公のルネを演じていたこと。私が20年前に観たものも剣幸さんがルネだった。忘れられない名演だったし、名舞台だった。『繻子の靴』でも主人公を演じて、秀逸。貴族的な雰囲気がいながらにして醸し出せる役者なんて、そうざらにはいない。貴重な女優さん。
実は見ている間に眠気を感じた。セリフは立て板に水。猛烈なスピードで語られる。それもかなり耽美的なlines。めくるめくような言葉の洪水。イメージとイメージのぶつかり合い。ただそれも飽和点を越すと、その過剰さが逆に均された印象に「矮小化」されてゆく。ちょうど能の謡が単調なモノトーンに化して行くがごとく。それが眠りを誘うのかも。
渡邊守章氏の翻訳、そして演出が先鋭的だった。クローデル世界の価値観を日本の舞台に置き換えるなんて冒険というか無謀な実験を思いつくのは彼ぐらいだろう。また、狂言師の茂山逸平さんと茂山七五三さんが役者、語り手として参加していたことも、この芝居を「能」化する上で大きい役割を果たしていた。さらにいえば、野村萬斎さんが随所で口上の「語り手」(語り部?)として登場するのも的確な演出だった。能・狂言の人たちの圧倒的力量を感じてしまった。彼らが言葉を発すると、そこに情景が自ずと浮かんでくるというのは、訓練の賜物だろう。普通の俳優との違いをいやでも感じてしまう。この『繻子の靴』、オール男優で演じてみても面白いと思う。いっそのこと全て歌舞伎役者、あるいは狂言役者に演じてもらうとか。『サド侯爵夫人』もオールメールキャストで舞台化されたことがありましたよね。
この上演プロジェクトは2年前から始まっていたもの。京都芸術劇場のサイトからの情報をリンクしておく。また「ステージナタリー」の情報もリンクしておく。
一日経ってみて、この芝居の中の膨大な言葉の洪水、その過剰は、やはり西欧社会のものだと思った。それもカトリック的な土壌の上に堅牢に構築された社会の。その価値観が土台になっているので、私のような日本的身体性、心性の者が「理解」しようとすると、かなりしんどい。でも朗読劇(オラトリオ)形式によってその過剰さが「能」化されているので、一応は付いて行ける。クローデルはそこに彼の依って立つカトリック的世界観と日本体験を融合しようとしたのだろうか。
そしてかなり臍を噬む思いがするのは、最後の「四日目」を見逃したこと。三日目までの「悲劇三部」に続く道化芝居になっていたらしい。渡邊氏の解説によると「奇想天外の道化芝居」とのこと。また「ナンセンス不条理劇の先取り」でもあるとのこと。この「四日目」だけを舞台に乗せていただけませんでしょうか。
ともあれ、上演8時間は長すぎる。4時間を二日に分けるとかしていただきたかった。普通の観客は堪え難い長さ。それに衒学的すぎる。そういえば、この日の会場には研究者、元研究者と思しき人が多かった。それも年配の。