yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ナショナル・シアター・ライヴ『フランケンシュタイン』@ル・シネマ8月28日

以下に日本のサイトからの宣伝を兼ねた引用を。

ベネディクト・カンバーバッチ as 博士役バージョン
上映時間:2時間15分

演出:ダニー・ボイル/作:メアリー・シェリー/ 出演:ベネディクト・カンバーバッチ、ジョニー・リー・ミラー/ 音楽:アンダーワールド

ローレンス・オリヴィエ賞で見事に主演の2人ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが主演男優賞を同時受賞した傑作舞台。有名すぎるメアリー・シェリーの原作ですら、アカデミー賞監督ダニー・ボイルが演出すると今まで見たことのない新しい世界へと生まれ変わり、怪物の抱えた心の動きにグイグイ引き込まれること、間違い無し。

原作を読んだのが2年前。大学では英米文学専攻だったのだけど、クラスで読んだことはない。(日本の)大学院では一応英文学の古典に当たる作品はいくつかは読まされたが、その中にメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley)は入っていなかった。「キワモノ」扱いだったような。旦那さんのシェリー(Percy Bysshe Shelley)を修士論文に選んだ学生はそこそこそこいた。彼の傑作、あの有名な『西風の賦』または『西風に寄せる歌』(Ode to the West Wind, 1819年)は読んだ記憶が。

作者のメアリ・シェリー、夫のシェリーとは嗜好が一致していたので、一緒になったのだろうけど(それも不倫の末)、この作品は夫の創り上げる世界とは、全く違った様相の世界。時代の先端を行くというか、「サイボーグ」を予見、先取りしていると言ってもいいかも。これを18歳の時に着想、書き始めたのいうのだから、彼女の「天才」は夫を超えていたのだろう。2年ほど前に、自分が過去生のどこかで彼女と「関係していた」なんていう厚かましい妄想を抱いて、彼女のことを調べたことがあった。その時にこの『フランケンシュタイン』を読んだ。また彼女が登場する映画を何本か見た。伝記も読んだ。イメージしていた女性よりもはるかに過激な思想、行動力を持ち、波乱に満ちた生涯を送ったことを知った。彼女と夫とを取り巻いていた友人たちの異様な雰囲気は、とてつもなく魅力的ではあったけれど、どこか現世的ではなかった。この作品がまさにそういうアトモスフェアから生み出されたのは、理解できる。

原作は極めて重い。あのイギリスの陰鬱な空気そのもの。作品の舞台はドイツとスイスなんですけどね。書簡形式なので、そこから事実関係を読み解いて行くのも一苦労。しかし、全能の語り手 (omnipotent narrator) を想定していない分、より客観性が生まれている。だから、手紙のやり取りの中から浮かび上がる事件は靄がかかったようで、どこまでが「真実」なのか判別し難い仕掛け。そこに浮かび上がってくる事件は、この世のものとは思えない「おぞましい」もの。怖気を奮わざるをえないもの。こういうナラティヴ装置を考え出したとは、空恐ろしい少女である。シェリーは。

さて、当NTLiveの舞台。原作に忠実。ドラマ化するのに様々な工夫が施されていた。全方位から見渡せる大きな舞台。幕はなし。場面転換の際、必要に応じて大道具、小道具が持ち込まれて舞台設定がされる。先日見た染五郎と勘九郎の『四谷怪談』でも同様の工夫がされていた。斬新。METのオペラの舞台もこういうのが多くなっている。最近の傾向だろう。それをどの程度徹底させるかは、作品によって使い分けられている。でも実に面白い。次はどんな仕掛けが出てくるのか、わくわくする。

ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが怪物/博士をするダブルキャスト。この工夫も面白い。「怪物/博士が実はダブルだった」ことを示すニクイ工夫。私が見たのはカンバーバッチが博士、ミラーが怪物の方だった。逆も見てみるべきだったかも。時間的に無理だったんだけど。

カンバーバッチとミラー、双方とも演技的には非の打ちどころがない。イギリスの役者の凄さを思い知らされる。丁々発止と、ものすごいエネルギーの交換が舞台に繰り広げられる。このエネルギーについて行くのはかなりきつい(ヘナチョコの私の泣き言)。あの広い舞台が狭く感じられるほどの熱演。特にミラーの怪物ぶりが秀逸。悲しさを醸し出す演技も秀逸。最初の「誕生」部分では、日本の舞踏(BUTOH)を想起した。海外での方がBUTOHは有名だから、きっと参考にしたのだと思う。インタビュー(toカンバーバッチ)では、体の不自由な人たちの動きを参考にしたと言っていたっけ。

カンバーバッチはインテリ、それも自分勝手な、利己主義の塊の、そして頭脳を満足させるためには、「情」をも平然と殺すことのできる男を描いて秀逸。あのシャーロックの時の演技とも共通している。なんか、感心してしまった。こちらが怪物よりもずっと怪物(サイボーグ)的。まさに「二人」はダブル。

最後の場面は原作と違っていた。怪物を博士が追ってゆくところで終わっていた。二人ともよろよろとしていて、いずれ共倒れになることを予見させるところで終わる。

重い。哲学的な問いを観客に投げかけての結末。投げかけられた側は、かなり苦しい。この日のナショナル・シアターの観客、スタンディング・オベーションもあったけれど、全観客ではなかった。そこのこの作品の「重さ」が反映しているように思った。

「サイボーグ」研究が盛ん(?)になってきた最近の欧米における文学研究の分野で、メアリー・シェリーの名が挙げられるようになってきている。興味深い。数年前に「サイボーグ」をテーマに論文を書いたり、発表したりしたのだけど、そのままになっていた。これを機会に再開すべきかも。