yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『恋・貫き候』桐龍座恋川劇団@梅田呉服座7月19日昼の部

新作狂言ということで、大いに期待して出かけた。「れん、つらぬきそうろう」と読むらしい。以下が配役。役名の漢字に誤りがあるかもしれない。ご容赦。「えんじゅうろう」を「猿十郎」としたのは、四代目猿之助さんから真吾さんへの褌を木馬館で見たから。

猿十郎  純
猿四郎  風馬
天膳   心哉
弥生   かれん
結衣   
音羽龍門 初代純
音羽新之助 千弥
門弟   晴城

登場人物で音羽塾の門弟、それと天膳の一味役に東映の役者さんたちが4名参加。最後の殺陣のシーンが見応えあった。

純さんが芝居が終わってからの口上で、「ある有名劇団の許可を得てその持ち狂言をかけました」と仰ったので、どこのものなのか見当はついた。その場で検索をかけたら、やはり「劇団荒城」のものだった。「劇団荒城」は以前に木馬館で一度見たきり。とはいえ何年も前に、ある九州系の劇団で「劇団荒城」の荒城真吾さん作と云う芝居を見たことがある。真吾さんの「嗜好」からなんとなく彼の作だと推察した。

ニヒルな剣客をめぐる悲劇を描いているのだけど、芝居は全体として骨太。九州の匂いがすることはする。でもあんなに泥臭くない。もっとあっさり目で、これは江戸風。それを関西(上方)の恋川劇団が演る。これはナカナカのみもの。荒城版がどんなのか、元の芝居を見ていないので、比較はできない。ただ、かなり雰囲気は違ったのかもしれない。荒城の男性陣はみなさん180cmを超えるようなのっぽ。それだけでもいかにも男くさい。その人たちが舞台狭しと剣を交えるというだけで、その迫力は想像できる。その中に悪の権化のような天膳を配すると、その芝居の「男くささ」に陰翳ができる。イケイケドンドンが暗さを帯びる。

純さんが口上でおっしゃったように、恋川の役者さんたちは「いかにも善人」という方が多い。実際そうなんだろう。だからこそ、こんな作品を演って見たいと、純さんが思われたのも不思議はない。上方といえば「やつし」文化。実際、純さんも、劇団自体もこちらの方を得意としていますからね。それとはまるで真逆の悪の華を描く芝居。主人公は多分猿十郎。でもスポットライトの中心に来るのは天膳。心哉さんの天膳もどちらかというとかわいい目。あとの悪人役の人たちもかわいい目。だからこのニヒルな陰翳のある天膳と善人の猿十郎、猿四郎とのコントラストがあまり効いてこない。このコントラストが肝だと思うので、ちょっと残念。

また「れん」は「連」とも繋がっているので、猿十郎とその周囲の人間たちの形成する「連」と天膳の孤独との対比も隠されているのかもしれない。

郷士と上士(この言葉、はじめて知りました)との間の身分違いの恋というのが、あまり生きていないように思った。タイトルにはなっているけれど。天膳のキャラを生かすためには、天膳との対決の中での猿十郎と弥生の「恋」を際立たせるように描く必要があると思う。恋が天膳の悪を駆逐するというかたちに収まるというのが、タイトルから察せられる構図ではあるけれど。でもそのドラマチック・コンフリクトが立ってきていなかった。まあ、そこに主眼がなくて、どちらかというと天膳のかっこよさを際立たせるのが狙い?最後の殺陣シーンに何もかもが収斂するようになっていたところを見ると、元の脚本がそうなんでしょうね。

天膳を演じた心哉さんが11月から独立されので、その「はなむけ」を兼ねての今回の狂言、また天膳だったのかと、勝手に想像している。

恋川劇団としてはじめての芝居を舞台に乗せるというその勇気に、ガッツに声援を送りたい。トップを走っている劇団の座長たちももう三十代半ばを過ぎている。それに比べると純さんは若い!舞台にもパワフルな、清新な気が充満している。発想も演じ方も若い。彼の時代になりつつあるのかもしれない。