観客の多くが若い女性で、驚いた。歌舞伎とはまるで違う。また先日見た能の公演とも違う。萬斎さんの魅力が彼女たちを惹きつけているんだろう。ひょっとしたら羽生結弦さんファンで来られた方もおられたかも。
以下がプログラム。
小舞 「蝉」 せみ 野村裕基 地謡:飯田豪 高野和憲 石田幸雄 内藤連
2004年新春狂言「靭猿」の子猿で大阪デビューから一廻り、申年の夏は元気な蝉で。「文山賊」 (ふみやまだち) 野村萬斎 深田博治
二人の山賊が追い剥ぎに失敗して仲間割れし、果たし合いで決着を付けることになるが、どちらも臆病でらちがあかない。見物人もいないところで争って死ぬのは空しいからと、書き置きを残すことになって…。「泣尼」 (なきあま) 野村万作 内藤連 石田幸雄
法事の説法を頼まれた僧。お布施を目当てに引き受けるが、実は説法が下手で自信がない。そこで、談義を聞くと感激して泣き出す役の尼を雇うが、いざ説法になると、尼は居眠りを始めてしまい…。芸話 野村万作
「伊文字」(いもじ) 野村萬斎 中村修一 高野和憲
妻の欲しい主人は太郎冠者を連れて清水寺に参籠し、お告げ通り住まいを尋ねると女は歌を残して姿を消す。肝心の歌を忘れてし 関を構えて通行人を止め、歌を言わなければ通さないと迫る。
「蝉」
冒頭の小舞は萬斎さんのご子息の裕基さん。とても初々しい舞だった。
「文山賊」
二人の山賊が橋掛かりから登場した段階で、何かおかしい。まず風体。狂言ではそういう様式になっているのかもしれないが、あまり山賊っぽくない。弓矢を持ったアドを深田博治さんが、槍を持ったシテを萬斎さんが務める。ドジで結局は獲物をとり逃がしてしまうのだけど、もっともだと思わせる間抜けぶり。で、二人は喧嘩をおっぱじめる。取っ組み合いになるのだけれど、なんとものどかなもの。これもある種の様式に則ったものだろう。型が決まっている。のんびりとした緩慢に見える動作だけど、計算し尽くされているのがわかる。ふっと思ったのだけど、こういうのどかさこそ猿楽が元になっている狂言らしい。「農」が出自にあるのだろう。われらが先祖はこんな風にのんびりした人だったのだと想像するだけで、ほっとするし、愛おしい。いかにもおっとりとした日本人。せっかちな私など、日本人にカウントできないのかも。
時間の流れが緩やかで、まさに中世的。これを鑑賞する人もその世界に同化するだけの感性の持ち主なんでしょうね。
「泣尼」
これはかなり「現代的」な内容。そのまま現代劇にアダプトできるだろう。施主(依頼主)を内藤連さん、僧を万作さん、尼を石田幸雄さんだった。万作さんの僧は世俗性と超俗性とのコンビネーションとバランスが見事。これで人物が立体的になる。この立体性こそ現代劇に通じるもの。これも恐らくはかなり厳密に様式化されたものだろう。様式をそのものとして提示しないというかしてはいけないから、そこに卓越した技能が要請されるのだろう。万作さんはずっと下を向いていなくてはならない尼役の方が僧役よりずっと大変と後の芸話中におっしゃっておられたけど、ナカナカ。ワンパターンで済む尼よりも、この複雑な役、僧の方が何倍か大変だろう。
万作さんの芸話と「伊文字」についての記事は後の稿にする。