yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

エマニュエル・トッド著『帝国以後:アメリカシステムの崩壊』(石崎晴巳訳、藤原書店、2003年)

やっと図書館で借り出すことができた。原題は『APRES L’EMPIRE: ESSAI SUR LA DECOMPOSITION DE SYSTEME AMERICAIN』。出版が「9.11」の一年後の2002年9月だったのが興味深い。和訳が出たのは2003年4月30日で英訳よりも半年早かった。さすが日本。独・仏語本の翻訳は日本の翻訳より遅いことが多い。当時これを読んでいたら、アメリカに対する見方がかなり変わっていたかもしれない。「9.11」を現地で経験してしまっていたので、アメリカ人寄り(つまり対イスラム圏)の心情になっていた。アメリカ国内ではいずれアメリカが、というか、ブッシュ大統領が実質参戦するだろうということに関心が集まっていた。だから2003年3月のイラク空爆は、「ああ、やっぱり」という雰囲気で受けとめられたと感じた。だから独・仏コンビが国連決議で反対を表明しても、アメリカ国内世論はかなりブッシュに同調的だった。もちろん、大学キャンパスの雰囲気はそれとはかなり違っていたけど。

トッドはこの空爆後、「同情を禁じ得ない傷ついた国、われわれの世界の均衡におって不可欠な国というイメージは、わずか数ヶ月で消え失せ、落ち着きなく動き回る攻撃的な、自己中心のアメリカというイメージに席を譲った」と断じる。しかもこのアメリカの行動様式を十全に説明できる「説明モデル」がないという。彼が提出しようとしているのは、それまでのいわゆるアメリカ東部エスタブリッシュメントによる分析、それぞれ経済的(ポール・ケネディ、ロバート・ギルビン)、文化・宗教的(サミュエル・ハンチントン)、あるいは軍事・外交的(ズビグネフ・ブレジンスキーヘンリー・キッシンジャー)なものを踏まえつつ、それらとは違った視点、彼の専門である教育と人口動態からアメリカの「変貌」を分析する。ここでフランシス・フクヤマがやり玉に挙っていたのがおかしかった。

フクヤマの『The End of History and the Last Man』を読んだ折に、ヘーゲル弁証法で歴史を解明するという姿勢、それもかなり単純な援用法に違和感があったし、その結論にも抵抗感があったのを思いだした。世界の中心をアメリカに置いた視野の取り方と他のイデオロギーをばっさりと斬る手さばきはなかなかのもので、その平明さは感動的ですらあった。

フクヤマの本が大論争を引き起こしたように、トッドの『帝国以後』も論争を引き起こした。トッドはフクヤマのように、ヘーゲルやらニーチェやらに寄りかからない。あくまでも実証的かつ科学的分析で事象を解明するという姿勢を貫いている。しかもそれはかなり実際に起きたことを言い当てている。アメリカの「テロとの闘い」がloosing battleであり、それは人口学と教育の充実から推測できるというのが彼の説である。

アメリカを「帝国」ならしめる軍事的、経済的優位性も、今や過去のものになりつつあると彼は言う。軍事的には確かにアメリカの落日は明らか。経済的にも(当時)日本やドイツの後塵を拝し、世界の覇権を取るのに失敗している。挙げ句の果てに金融サービスで巻き返しを図った。これが後のリーマン破綻を発端とする金融危機を予見していたと評判になったらしい。グルの域に彼があがめられる所以かもしれない。「予言者」といってしまえば、かなり違った像になるかもしれない。

もうひとつ、他の論者が言及していない彼の論で興味深かったのが日本への高い評価と期待だった。日本と合わせて敗戦国のドイツも安全保障理事会の常任国とすべきと述べつつ、ドイツのような権威主義的国家形態より日本の融和的な形態を高く評価し、また期待していることが分かる。『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』での彼の主張と連動しているのは、明らかである。この著書でもっとも印象的だったのが、「ロシアが西欧社会が考えているような脅威にはならない」というロシア分析だったというのを、付け加えておきたい。

ネットで「EUがギリシャ金融支援で合意」というニュースが飛び込んで来た。トッドが高く評価している『21世紀の資本論』のピケティを始めとする経済学者が、ドイツの「女帝」メルケル首相にギリシャ緊縮策見直しを要望する書簡を送ったという。とにかくもめにもめた末の決定だったよう。トッドもピケティと政治的スタンスはかなり近いから、きっとほっとしていることだろう。