yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『ひかげの軍団』スクエア傑作リバイバル@ABCホール9月19日

「スクエア」という劇団を見るのは初めて。もっとも最近は小劇場系の劇団をそんなに観ているわけではないので、どの劇団でも初見に近い。

劇団サイトからのチラシ写真、そしてCMが以下のようになっていた。

スクエア兄さん4人による
傑作リバイバル!!

かつて、「中之島演劇祭2006」で、
テント会場内爆笑の伝説を残し、
「東京劇団フェス’08」に招聘され、
シアターアプルを沸かせたスクエアの傑作コメディ。
リニューアル上演。
主要メンバー4人のみの出演で贈る、
スクエア独自のグルーブ感に乞うご期待。

その「スクエア兄さん」というのが以下の役者さんたち。右にそれぞれの役名。

上田一軒 as 古葉猛
森澤匡晴 as 水口尭
北村 守  as 米野修平
山本禎顕 as 和田一輝

ちなみに原作は森澤氏、演出は上田氏。

上のチラシ写真で四人がバナナをくわえているのは、このバナナこそが彼らの芝居を象徴するものだから。忍者につきものの秘伝の巻物。劇中で小道具を使うところでそれが間に合わず、とりあえずそこにあったバナナを巻物に見立てることにする。「見立て」の精神ですね。そういえば、随所にこの「見立て」が見られた。原作者森澤さんのこだわりでしょう。見立ての見立て、つまり幾重もの虚構化を施しているわけで、そこに独特の諧謔がみられた。このひねりこそがファンを惹き付けているのだろう。

テーマはとても斬新だし、役者が役者を演じるという点もおもしろい。以下がこのお芝居のあらまし。

テーマパーク千早赤阪歴史村に付随している芝居小屋、歴史座。舞台の上には火の見櫓が二つ組まれている。その櫓の側面に「日影の軍団」と書かれた紙が貼付けられている。それが今進行中の芝居の題名。「歴史村」というキャッチフレーズに合わせ、太古時代から昭和に至るまでの時代を切り取った芝居をいくつかの小屋でうっている(らしい)。それも月代わりで。「日影の軍団」は豊臣から徳川に移行する時期のもの。これはもちろん例の「影の軍団」のパロディ。

幕が開くと黒ずくめの4人の「忍者」が立ち回りの真っ最中。この殺陣、かなり無理がありました。大衆演劇の秀逸なものを見つけているので。それとも上手くないようにわざとしていたのかも。

暗転し、ふたたびライトが点くと、そこは芝居につかう大道具、小道具がごたごた並べられた道具部屋のような部屋。一人の男がやってくる。この男、かなりそわそわと落ち着かなく挙動不審。携帯電話を放さず、だれやらとずっと会話している。あとでその相手が母親だとわかる。

男が退場すると、舞台では二人の男、米野と水口が会話している。どうもリーダーだった男が抜けてしまったよう。彼に演出を任せていたので、困ったことになったと言い合っている。水口は千早赤阪歴史村のアトラクションでアルバイト稼ぎの「ゆるキャラ」のアルバイトをしているいかにも冴えない中年男。一方米野の方もドジまるだしのかなりトロそうな男。こちらは来月の東京大空襲をテーマにした芝居中で被災した女の子を演じるということで、それらしき扮装。でもかなり違和感あり。これらから、この歴史村の芝居の質がかなりイイカゲンなものであることが判る仕組み。さらに役者たちが日の目を見ることのない三文役者であることも薄々察せられる。まさに「日陰もの」なのだ。

さきほどの挙動不審の男再登場。会話をするうちにこの男が抜けた男の代わりとして事務所から「派遣」されてきたことが判る。この派遣されてきた男、台本をもっていて内容はそらんじているのだと豪語する。翌日の芝居に間に合わせようと、米野と水口はさっそくその男と稽古を始める。だがまったく芝居が噛み合ない。劇中でも役名ではなく、自分を「和田」だと名乗る始末。ドタバタと稽古しているところに古葉が戻ってくる。彼はリーダーが抜けたことで自分が牛耳れるとよろこんでいる様子。

古葉の「演出」でさっそく稽古が再開する。ここで例の不審男の和田と古葉の役解釈のせめぎ合いがある。古葉も古葉だが、この和田もリウッド映画のオーディションを受けたといっているものの、ド素人に近い。古葉は筋書も配役も大幅に変える。それによってよりテーマが明確になるというのが彼の主張。でもこの面々で、かなり危なっかしい。観客には次になにが起きるのかが、この時点ですでに推測されてしまう。

古葉の「指導」で、主人公の忍び、服部半蔵を彼自身が、敵の忍び猿飛佐助を米野を、家康を水口が演じることになる。半蔵の台詞を覚えてきたという和田がそれに抵抗する。古葉は自分(つまり半蔵)の影役を和田に割り当てる。不満だが従う和田。四人の役者ですべての役をカバーするのは難しいということで、水口がその他もろもろの端役をまとめて演じることになる。また和田は効果音、小道具等を任される。

もともと主役級の役をやったことのない役者たちとそれを仕切りきれない演出家の組み合わせがどういう結果になるのかは、容易に想像できる。一晩練習しても、ほんのさわりの部分のみを合わせただけ。それで翌日の幕があく。

観客はいつもの小学生たちと違い、年齢層がぐんと高い。というより年配者が多数。どうも和田の母親が知人たちを動員して観に来たらしい。芝居が始まるが案の定失敗の連続。ドタバタ劇になってしまう。最後はなにがなんだかわからないうちに幕。観客たちも(あきれて)笑っている様子。

ところが「日影の軍団」を演じた四人の役者たちは、稽古以上に行き違いに次ぐ行き違いのこの芝居がやっと終わって、今までにないある種の充足感を感じている様子。芝居は大失敗だったかもしれないけど、なにか今までになかった連帯感が生まれている。和田までがこのニワカ作りの劇団の一員として収まっている。

そして間に合わせの「バナナ」はバナナでなく、なにかもっと実体のあるものに変っていた。虚構が確かなリアリティへと変貌する、つまり「日陰者」の役者が役者へと変貌した瞬間だった。この演出にこの劇団の自負が感じられた。観客に、そこに立ち会ってもらいたいという願いも垣間見えた。

役者さんたち全員がもう若くはなかったが、それがこの芝居にリアリティを与える最大の要素だった。これは20代、30代の役者が演じるのは無理だろう。それまでの人生体験がその身にまとわりついている役者でなくては、この悲哀感、そしてそれを超える充足感を演じることはできなかったと思う。この四人の役者さんたち、実に芸達者。

また芝居の内容そのものが劇中劇を使うという点などモダン。アメリカとかイギリスの芝居を思いだした。しかも日本の伝統、見立ての精神を組み込むなんてところも秀逸。なによりも「高踏派」をきどらないところが一番良かった。他の小劇場系芝居のクサイ気取りがなかった。そこにもっとも好感がもてた。

以下がこの四人の写真。
左から北村さん、上田さん、森澤さん、そして山本さん。

観客も役者にシンクロできる人たちだというのが分かった。知的な遊びをアプリシエイトできる人たち。