yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『暗闇の丑松』たつみ演劇BOX@京橋羅い舞座2014年9月18日夜の部

長谷川伸の原作。でもたつみ版は私が2013年に新橋演舞場で観たものとはかなり違っていた。この公演についてはブログ記事にしている。

もともとは講談だったということなので、たつみ版がプロトタイプから外れているということではなく、「旅芝居としての型」をみせてくれたのだと思う。それもたつみ座長の力量があればこそで、実に「知的に」まとめられていて、感心至極だった。芝居の構成、ストラクチャーは普通の大衆演劇芝居とは違って、きわめてモダン。それを残しつつ、大衆演劇的要素が加味されていた。この点では先日観た『上州三盗伝』と共通したものを感じた。

横浜出身だった映画好きのモダンな長谷川伸が目をつけて自分の芝居にしただけのことはある。私がみた歌舞伎ヴァージョンでは映画的手法がふんだんに採り入れられていた。この辺りのことは「歌舞伎素人講釈」さんのブログ記事に詳しい。優れた論考。以下引用させていただく。

例えば序幕・鳥越の二階から丑松とお米が逃げる幕切れでは屋根の上に立った丑松がお米を抱いて右手で下を指して静止してきまる形が六代目菊五郎の型です。しかし、長谷川伸はこの場面をセリで上げることを想定して脚本を書いたようです。昭和29年6月歌舞伎座で二代目松緑と現芝翫が共に初役で演じた時には・作者のたっての希望で、ふたりが屋根にいる時にセリが上がり・ふたりは見つけた梯子を使って屋根から本舞台に下り・そのまま花道から揚幕へ駆け入るという幕切れを見せました。このセリの使い方は映画的な発想です。いつもはカットされてしまう序幕第2場・丑松とお熊が言い争う「階下の場」も・セリの使用によるスピーディな舞台転換で見せることを作者は想定していたことが分ります。

大衆演劇の乗る劇場には装置の制約があるので、もちろんこの屋根の上の場はたつみ版ではなかった。それがかなり残念。というのも、お米を苛め抜いている継母を殺してしまった丑松の心情、お米の暗い境涯、追いつめられた「社会のはぐれ者」二人の逃避行、それにあまねく通底する二人の心理がこの屋根裏シーンに集約的に出ているから。二人の行く末の悲劇的な結末を予感させるから。そしてなによりも観客が丑松とお米に同化する瞬間を作りだせるから。

丑松はたつみさんの方が私がみた松緑よりよかった。もっと大人の感じがした。その「大人」が再会したお米をなじるところにリアリティが醸し出されていた。子供(っぽい人)には、騙されて女郎屋に売り飛ばされたお米の悔しさと哀しさは最後まで理解できなかっただろうけど、たつみ丑松はそこをきちんと演じていた。

いちばん感激したのは、たつみさんのお母様の龍子さん。お米が売り飛ばされた「だるま茶屋」のやり手ババア役。当意即妙のアドリブが素晴らしい。魅力的!歌舞伎にはこれほどの女形はいない。もっと舞台に出て欲しい。

大衆演劇十八番のクサイ演技、演出はなかった。これも評価したい。歌舞伎調に見得を切るところはあったが、それは歌舞伎でも大衆演劇でもないなにか新しいものだった。それはたつみ版『三人吉三』とも類似していた。たつみ独自の世界を創りあげようとしている、その姿勢、意欲がすばらしい。

明日(といってもすでに今日!)には同じく長谷川伸の『沓掛時次郎』が京橋の舞台にのる。「いったいどこまでヤシン的なんや!」という声が聞こえて来そうですね。