yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『元禄忠臣蔵』中「御浜御殿綱豊卿」 in「吉例顔見世興行」@京都南座12月23日

二代目市川猿翁、四代目市川猿之助、九代目市川中車の襲名披露でもあるので、口上があったが、猿翁は休演。また、片岡仁左衛門、市川段四郎も休演だった。口上は猿之助、中車と、坂田藤十郎がならんでのもので、いつもの襲名披露の口上よりいささか寂しかった。でもこういう「すっきりした」やり方は、おそらく先代猿之助からの「美学」なのかもしれない。それにわずか10分という時間では、お歴々がずらっと並んでの披露も無理だろう。

以下が「御浜御殿綱豊卿」の配役。今年9月に新橋演舞場で三津五郎、橋之助で観たことを思いだした。それに比べると、演出がずっとドラマチックだった。澤瀉屋版とでもいうべきか。

第一 元禄忠臣蔵(げんろくちゅうしんぐら)
    御浜御殿綱豊卿

               徳川綱豊卿       梅 玉 ※
               新井勘解由       我 當
               中臈お喜世       孝太郎
                小谷甚内       松之助
               御祐筆江島       時 蔵
              富森助右衛門       中 車

アステリスク箇所、休演の仁左衛門の替わりは梅玉だった。

助右衛門の中車と綱豊卿の梅玉の息詰る応酬がみせどころである。9月にみた助右衛門橋之助、綱豊卿三津五郎のものも、たしかにヤマアゲに近い箇所はあったが、それもすべて歌舞伎の範疇に納まったものだった。真山青果による原作がそういう風に書いているからだろう。でも橋之助がちょっと重くて、これから討ち入りをする男の覚悟、それと潔さ、もっというなら「若さ」を描けていなかった。生きの良かった以前の彼とくらべると、残念だった。

中車はその点、「若さ」を描出するのに成功していた。ただ、この役柄上だけでなく役者間の心理合戦、完璧に梅玉の「勝利」である。あらためて歌舞伎役者の凄さをいやというほど、感じさせられてしまった。古典歌舞伎ではそうあからさまに「心理」を描かない。ただ真山青果作品は現代版歌舞伎なので、心理に踏み込んだ演出をすることになる。歌舞伎役者、オソルベシ。心の動きを訓練された身体によって(拠って)表現することができるのだ。いままで梅玉で良かったと思ったのは、『曾根崎心中』の徳兵衛のみだったのに、これで見直した。仁左衛門の綱豊卿も優れていたらしいけど、梅玉の今回の代役もそれと同じかそれ以上だったのではないだろうか。

中車は(これを云ってしまってはおしまいなのだけど)身体が出来ていない分、台詞に実をこめることができていなかった。テレビ、映画という映像の中ではそれで十分、あるいはそういう身体は不要なのかもしれない。だから、長く映像の世界で活躍してきた、そして実績もあげてきた中車に、いきなり歌舞伎的身体を求めるのは酷にはちがいない。それはご本人もよく分かっていて、精進しているのだろう。やっぱり時間がかかるんでしょうね。

江島の時蔵が良かった。華やかで品があって、それでいてきりっと「オトコマエ」で、魅力が溢れていた。今年6月の歌舞伎座の「喜撰」といい、7月、国立劇場の「葛の葉」といい、彼にしか醸し出せない色気がある。だから登場場面が少ないと、ちょっとがっかりする。

孝太郎のお喜世も良かった。オトコマエの江島時蔵と比べると、どこか「幼さ」の残る生真面目な中籠を、きっちりと演じていて、説得力があった。