yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「伍代孝雄20周年記念公演」10月23日夜の部

芝居は『上州土産百両首』だった。これはいくつかの劇団でみたが、様々なバージョンがあった。おそらくこの日のものが最ももとの形に近いのだろう。「亀治郎の会」が2010年にやったものの筋が某サイトにあった。リンクしておくので、オリジナル芝居に興味のある方はそちらをご参照あれ。そのサイトの紹介文によると、「昭和八年(1933年)、六代目菊五郎と初代吉右衛門で初演。
作者は川村花菱という劇作家で、大正から昭和にかけて新派の作品を手がけ、
「金色夜叉」の脚色をはじめ数多くの作品を残したそーだ。」(原文のまま)そのときは牙次郎が吉右衛門、正太郎が菊五郎だった。「亀治郎の会」では正太郎を亀治郎(現猿之助)、牙次郎を福士誠治がやったそうである。

いただいたチラシによると、本公演での脚色、演出は武田朗とのことである(某興行師の拙劣・冗漫な脚本、脚色でなくてよかった)。

大衆演劇の劇団は劇団員の人数に限界があるので、かなり変えて演じられる。私が観た中で印象に残っているのは鹿島順一劇団で現鹿島順一さんが牙次郎、蛇々丸さんが正太郎だった。花道さんがワルの三次だったと思う。蛇々丸さん、花道さんが上手かった。でも話は大分短くなっていた。

最も良かったのは都若丸劇団でのもの。若丸さんが牙次郎、剛さんが正太郎だった。二公演みたのだが、最初のもの(2010年新開地劇場)のほうが長かったように記憶している。衝撃的な舞台だった。というのも、伝統演劇でフラッシュバックの手法を使ったのを初めてみたから。最初のシーン、牙次郎が親切な岡っ引き(キャプテン)に自分の過去を話すところから芝居は始まっていた。こういう工夫をいろいろ試すところが若丸版なんですよね。

この記念公演は座長大会でもあるので、出演者が足らないことはない(むしろ多すぎるくらい)。だからもとの形に沿って、かなり忠実に演じられたのだと思う。でも鹿島劇団のものに比べても、ましてや若丸劇団のフラッシュバック版に比べてもインパクトは少なかった。良かったのは若丸さんの牙次郎。でもこれだって、彼自身の劇団の牙次郎の方が数倍生き生きしていたように思う。若丸さん、他の役者を立てるためあえて控えめに演じたのでは。御用聞きの親分、隼の勘次役の純弥さん。貫禄十分だった。純弥さんはこういうのはまり役ですね。彼はこの7月、若丸劇団にゲストのときにもこの勘次を演じていた。

それと、勘次の女房役の沢田ひろしさん。気風のよい江戸前女を小気味良く演じて快挙。隼の勘次一家の下っぴき役の三条すすむさん、都京弥さん、殆ど演技をしていなかった。同じ子分役の伍代劇団の瑞穂さん、信之さんは芝居に参加していたのに。いくら自分たちにライトが当たっていない時でもきちんと演じるのがプロでしょう。まあ、この新開地ではどちらかというと「人の家に上がり込んで来た部外者」ってな雰囲気があるから、仕方ないのかもしれないけど。藤野かなさんの旅館の娘役も無理があったような(美人でも若くもないから)。てまりさんがやれば良かったのに。こういうのが座長を全部出さなくてはいけない座大のつらいところなんでしょうが。

孝雄さんの正太郎はさすがだった。義理堅く律儀で、だからこそ三次のような男が赦せなかったという人物造型がとても上手かった。この方の芝居をひとことでいうなら、「折り目正しい芝居」ということになると思う。なぜこの芝居を選んだのかが、分かる気がしたのは、芝居中に若丸さんに対しての台詞のいくつか(読み込み過ぎかもしれませんが)。その一つが劇場全体をみてのアドリブ、「こんなに人がいっぱい入るのは久しぶり。以前はそうだったんだけど、あなたやら、純弥やら、春之丞なんかが出て来てからはね...」。

それと、最後の場面での台詞。勘次にお縄を解いてもらった正太郎に牙次郎は「どこまでも一緒に行こう」というのだが、正太郎=孝雄座長は、「いや、ここからは一人で行く」と一人花道を入ろうとする。勘次の純弥さんがそこで、「心静かにひとりでお行きなせえ」ととりなす。感動的だった。孝雄さんの決意の程と、後輩たちへのはなむけの気持ち、「あとをよろしく頼んだぞ」という思いに溢れた台詞だった。牙次郎役を若丸さんにしたのも、こういう気持ちの表れだろう。胸が詰まった。泣きながらしがみつく牙次郎に、正太郎は「泣くんじゃあねえ。心にかかる雲はねぇ。笑って行ける一人旅さ」といって、引っ込んで行く。旅立とうとする先輩と、残された後輩との象徴的な関係を表して、秀逸な幕切れだった。さすが孝雄座長。このあと、千秋楽まで、できるだけ新開地に通おうと思った。

芝居の優劣は舞踊ショーのそれと連動していた。お芝居の上手い役者は舞踊も上手いと相場が決まっている。

伍代さんももとは九州出身なのだろうが、「九州臭さ」がない。それはこの日の九州系の役者と比べてみると一目瞭然。もっと洗練されているし、下品なアドリブも濫用しない。なによりも芝居を重視している。だから格式が高いし品とインテリジェンスがある。

九州系でも芝居重視のところは少数ながらいくつかあるが、この日のそれ系の役者には余り感じられなかった。それと舞踊がアザトイ。特に姫京之助さんの観客を「釣りあげる」「一本釣り」。vulgarityの極み。役者の品性が垣間見える。この人が出る会には二度と行きたくない。