大阪市立中央図書館へ行くのに地下鉄鶴見緑地線に乗ったら、このフレーズにをみた。すぐに降りたので何の広告だったのか、定かではないのだけど。
そのフレーズが目に飛び込んできたのは、多分今の自分の気持ちをよく代弁していたからだろう。もう「迷う」段階は過ぎてはいるが。去年はかなり悩んでいた。今の勤めを辞めようと思ってから、もう一年近くになる。今年の2月に所属の学部長に「前期で辞めます」といったら、あっさりと「そう」といわれた。へんに慰留されるよりよかった。
でも、結局は本年度末まではいることになりそうだ。英語を教えるということは、アメリカから帰国したときにいちばんやりたくなかったことだ。今までにも十分やってきたから。日本語を教える方がまだマシである。語学はネイティブスピーカーが教えるのが正論だと思う。その存在自体が言語の文化的、社会的バックグラウンドそのものだから。百歩譲って、外国人でも教えられるとしたら、それは後天的に「学習」したことを、客観的に伝えるという形しかない。そうなると、社会だったり、文化だったりの解説、解釈、分析ということになるのだろうけど、そういう方面に興味を示す学生は稀である。会話(それもお天気会話程度)ができるようになりたいとか、TOEICで良い点をとりたいとか、その程度の意欲だから、こちらもその期待に応えるしかない。8年前にももう沢山(I have had enough)と思っていたのだから、今はそれを超えて、自分の身心が壊れつつある。
大学院の博士課程を出ても就職先がきまらず、非常勤をやりつづけなくてはならない人がいっぱいいて、彼(女)にとって専任の口は喉から手がでるほどほしいものである。そういう人たちに譲るべきだろう。これからうんと伸びる可能性のある人、フレッシュな気持ちの人に機会を与えるべきだと思う。それも理由の一つ。
それと、もう一度思うように生きたいと思い始めたこと。自分が壊れて行くのを見届けるのはごめんである。収入のことを考えると、無謀なのかもしれない。でも、何とかなるさと「肚をくくる」しかない。アメリカへ行ったときも「無謀」の極みだった。ただし、あのときはまだ今よりは若かった。何も考えていなかった。あの無謀さと同じ心情になるのは、もう無理だけど。
例の学部長、面白い人で、3月に食堂で出くわす度に「もう、庶務に云いましたか」と(わざと)大きな声で聞かれるので、閉口した。最近は事務サイドはみんな知っているので、さすがにその手のいたずらには興味をなくしたみたいだけど。元は有名私立大の副学長までした方で、昔の教え子のエピソードから、ご自身の恋愛(?)まで、話が多岐に渡り滅法面白い。小説が何冊も書けるほどである。去年たまたま保護者懇談会で一緒した折に、それが判った。そこで彼に、「先生のお話をもっと早くに聴いていたら、辞めなかったかもしれません」といったら、すかさず、「そんなん、大丈夫。1時間いくらで講義料を払ってくれたら、なんぼでもしますで」。この方、2月に私が「辞めるつもりですが、前期末にするか、年度末にするか迷っています」といったら、「決心したんやったら、早い方がよろしい」とおっしゃった!