yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『蛇柳』ABKAI市川海老蔵第一回自主公演@シアター・コクーン8月11日夜の部

以下、公式サイトより。

脚本             松岡亮   
振付、演出          藤間勘十郎  
丹波の助太郎実は蛇柳の精魂  市川海老蔵
金剛丸照忠          市川海老蔵
住僧定賢           片岡愛之助

「じゃやなぎ」とよむそうだ。市川宗家の歌舞伎十八番のひとつで、プログラム解説によると、「1763年、江戸中村座で『百千鳥荒磯流通』の三番目に演じられた「夏柳鳥多摩川」の所作事が初演と考えられている」とのことである。そのとき、主人公の丹波の助太郎を演じたのが、四世團十郎だったのだが、それ以来、上演は長らく途絶えていた。1947年(昭和22年)に十世團十郎が復活させたが、その後また途絶えていた。

今回、海老蔵は僅かに残っている資料をもとにこれを長唄狂言として「復活」させた。とはいうものの、振付けを担当した藤間勘十郎との対談を読むと、ほとんど創作に近い。二人で話し合いながら、新しい舞踊劇として創り上げたのだ。これまた「復活狂言」としてこの五月に南座で舞台に乗った「鎌髭」と良く似ていたのは、海老蔵のアイデアが素になっているからだろう。

話としては荒唐無稽、理を超越した歌舞伎の典型。要するに、蛇の精の薄気味悪さと悪勇者金剛丸の剛毅さを対照させるところに、そしてこのまったく相対する二役を海老蔵一人が演じるところに、この演目のみどころがある。だから、ストーリーやら意味やらを探そうとしても、肩すかしを喰らうだけだろう。

蛇の精を演じた海老蔵、ムダな動きが抑制されていて、綺麗に所作が決まっていた。さすが勘十郎の振付け。蛇の精と争うのは愛之助演じる高僧、定賢。このあたりの所作は能を踏まえている。また、「悪霊を鎮めようとする高僧」という話そのものも、能の図式踏襲。邪悪な精をなんとか調伏しようとするが、能の舞台と同じく、手こずる。そこへ登場したのが「鎌髭」の悪七兵衛景清を思わせる金剛丸照忠。隈取りをした顔、その出立ちもまるで悪七兵衛景清。その扮装、メークはABKAI公式サイトにアクセスすると出てくる。

蛇の精が立ち木の後ろに隠れる場面で、海老蔵と代役が入れ替わったのだろう。蛇の精は被衣を被っているので、顔がよく見えず、「海老蔵の動き、ちょっとカンマン!」と思っていたら、その切れの悪い蛇の精は海老蔵ではなかったわけである。海老蔵は化粧を仕替え、金剛丸の荒事メークで再登場という段取りになっていたのだ。それにしても魔物メークから荒事メークへの化粧替えの早さ、見事さ、『伊達の十役』の海老蔵の早替わりを思いだしてしまった。公演プログラムにも、勘十郎談としてその見事さへの言及が載っていた。できないことをできるようにしてみせて、「どうだ!」といわんばかりのところ、昔の歌舞伎役者もかくやあるらん。