坪内逍遥らが始めた「新歌舞伎」の成功例は少ない。岡本綺堂『番町皿屋敷』や真山青果の『元禄忠臣蔵』、そして長谷川伸、『一本刀土俵入』等の例外はあるが。三島由紀夫の『鰯売恋曵網』も例外に数えられるかもしれない。でも明治期以降に作られた新作歌舞伎は旧歌舞伎作品に比べると、どうしても「見劣り」してしまう。
それに挑戦したのが市川猿之助の「スーパー歌舞伎」であり、十八代中村勘三郎の「コクーン歌舞伎」だった。ただ、それらは歌舞伎界の「主流」にはなり得なかった。でもそれがようやく若手役者を中心にした運動体に結実しつつあるように思う。その結実の一つが『GOEMON石川五右衛門』であり、また今回の『はなさかじいさん』だろう。市川猿之助(前亀治郎)、片岡愛之助、尾上松也、市川染五郎、尾上菊之助、中村壱太郎などの名門歌舞伎の若手がその運動に加わり、小さな流れが大きな流れになって行く予感がする。
その流れに海老蔵が入ってくるのだから、百人力である。これからの歌舞伎を、その変化を予見させる海老蔵の今回の挑戦である。でもこういう過激な挑戦、やっぱり大変なんでしょうね。だから「自主公演」という形になったのだろう。場所も渋谷のコクーンということで。これは故勘三郎が野田秀樹と組んで始めた「コクーン歌舞伎」の流れに乗ったものでもある。彼らの『砥辰の討たれ』は観ていないが、染五郎、愛之助のものを去年2月に松竹座で観た。このブログの記事にもした。今回の『疾風如白狗怒涛之花咲翁物語』は斬新さ、過激さでは『砥辰の討たれ』を凌ぐものでもある。『砥辰』がリアリズム劇的社会風刺をそのスタイルとして採用しているのに対し、『疾風』の方は「社会」という背景を一旦エポケーして、アレゴリーとして立ち上げてみせた。「昔話」を下敷きにするなんていう発想、天才児海老蔵ならではである。
以下、公演サイトからの公演概要。
脚本 宮沢章
演出 宮本亜門<主要な役>
白犬のシロ、得松爺、貴寿公 市川海老蔵
正造爺 片岡愛之助
セツ婆 上村吉弥
一蔵 片岡市蔵海老蔵、江戸歌舞伎の継承と革新を期して
伝統ある江戸歌舞伎の継承者にして、規格外のスター性に恵まれた”現代のかぶき者”十一代目市川海老蔵が、型破りな自主公演に挑みます。
海老蔵は、これまでにも自らの家の芸である「歌舞伎十八番」の復活や、新作歌舞伎『石川五右衛門』の上演など、”伝統の継承”と”新時代の歌舞伎の創造”に積極的に取り組んできました。
今回の自主公演では、まず「歌舞伎十八番」の復活として、1763(宝暦13)年に四代目市川團十郎が初演した『蛇柳』を、舞踊劇にして上演。そして新作歌舞伎としては、気鋭のクリエイターの参加によって、なんと『花咲じいさん』の歌舞伎化に挑みます!宮本亜門 歌舞伎初演出!
壮大なスケールで贈る新作 歌舞伎版「はなさかじいさん」
かねてから、日本昔ばなしを歌舞伎にする構想を持っていた海老蔵が、その創作スタッフとして白羽の矢を立てたのは、宮沢章夫(脚本)と宮本亜門(演出)の2人です。
近年は作家として芥川賞や三島賞の候補になり、劇作家・演出家としては実験的な問題作の上演が続く宮沢ですが、かつては竹中直人・いとうせいこう・シティボーイズ(大竹まこと・斉木しげる・きたろう)らと「ラジカル・ガジベリンバ・システム」というユニットを組み、ナンセンスでシュールなギャグ満載の舞台を連発していた、笑いの天才という側面も持っています。正直者のいいおじいさんと欲深な悪いおじいさん、そして福をもたらす犬を巡るおなじみの昔話が、どのように鋭くおかしく、宮沢流に脚色されてゆくのか。
宮本亜門は、言わずと知れたミュージカルや演劇の優れた演出家で、アジア人として初めてオン・ブロードウェイで演出した『太平洋序曲』は、映画のアカデミー賞に相当するアメリカ演劇界最大の栄誉・トニー賞の候補にもなりました。これまでの実績から、欧米のミュージカルやダンス、オペラ等への造詣の深さは知られていますが、実は幼少時から歌舞伎や新派を観て育ち、日本舞踊の稽古をしていた経験も持っています。今回は日本の古典芸能に精通している希有な演出家として、いよいよ満を持しての歌舞伎初演出となります。
宮沢章夫と歌舞伎という超意外な組み合わせと、宮本亜門と歌舞伎の念願の組み合わせ。そして何より海老蔵×宮沢章夫×宮本亜門という、史上かつてない異色トリオの初顔合わせで贈る歌舞伎版『はなさかじいさん』。
今、壮大なスケールで瑞々しく描き出す、海老蔵版“新日本昔はなし”の幕が上がります。<STORY>
正直者の正造爺は、森の中で動物たちにいじめられケガをしていた白いイヌを助け、家に連れ帰ります。シロと名付けたそのイヌを、妻のセツ婆とともに、わが子のように育てる正造爺。そんなある日、隣に住む性悪の得松爺が、村の長を連れてやって来ます。なんでも、鬼ヶ島の鬼退治で手柄を立てた桃太郎が、家来のキジ・サル・イヌとともに、各地で狼藉を働いているとのこと。正造爺が助けたシロは、その桃太郎一味のイヌなのではないか、というのです。得松爺たちが帰った後、正造爺とセツ婆が問いただすと、シロは「信じてもらえないなら、秘密を話さなきゃなりません」と、夢のような宝物の話を打ち明け始めるのですが……。
正直者の善いおじいさんと、欲深な悪いおじいさん。そして、ワケありげな謎の白犬。おなじみの昔話が、宮沢章夫の脚色によりシュールで、ちょっと切ないファンタジーに生まれ変わり、演劇・ミュージカル・ダンス・オペラの舞台を知り尽くした宮本亜門が、初の歌舞伎演出でどんな亜門ワールドを展開してくれるのかが楽しみです。
全体の印象としては義太夫語りをベースに様々な日本昔話をコラージュの手法でつなぎあわせたもの。先代猿之助が『伽羅先代萩』を種にさまざまな歌舞伎の断片をコラージュした『伊達の十役』の手法である。動物を主人公にしたのは、今回は犬だが、『義経千本桜』の源九郎狐の適用。事実振りはそのまま踏襲していた。『千本桜』との親近性はそればかりでなく、最後の場での宙乗りなんていうのも、まさにそう。
これほどの作品に仕立て上げるには、おそらく脚本の宮沢章、宮本亜門、そして何よりも海老蔵自身の脚本段階からの参加があったに違いない。海老蔵の役者としての経験、そこから湧き出るアイデア、それを脚本にするに当たっての宮沢の斬新な物語作りの手法、亜門の演出力。亜門は現代劇、ミュージカルの演出で知られてはいるが、そのベースにあるのは幼い頃から親しんだ歌舞伎である。
さらに彼らをつき動かしたのは、海老蔵の今の歌舞伎に風穴を開けたいという、その意気込みだったに違いない。プログラム(「筋書」ではありません)に、海老蔵の弁としてこういう新作に挑戦することになった理由が載っている。それは観客が高齢化し、若い人が少ないことに対する彼の役者としての危機感を語ったものである。東京はまだしも、大阪、京都で歌舞伎を観る年齢層はかなり高い。東京だって、「新しい歌舞伎座」という物珍しさが若い人を呼び込んでいる部分もあるだろうから、若い観客を増やす工夫はずっとやり続けなければならないだろう。この公演では観客の年齢層は、私が今までみた歌舞伎公演中、圧倒的に若かった。
私が最も海老蔵らしいと感じたのは、義太夫狂言にこだわったところ。それを土台にすれば、あとかなりの冒険 をしても、飛躍を継ぎ足しても、歌舞伎のサマになる。私が想像するに、海老蔵は江戸役者の例にもれず丸本歌舞伎はさほど得意ではない。でも、昔話という形態を採る以上、それに最も相応しいスタイルは義太夫ということになることは分っていた。ただし、義太夫特有の重さを免れたかった。というわけで、今回のような形式になったのだと思う。いわゆる昔ながらの伝統的義太夫語りを骨子としつつも、それをひとまずデコンストラクト、そして再構築するというやり方は、結果的に成功している。彼自身もあまり得意ではない義太夫に挑戦、もがきつつもなんとか形にすることに成功した。
観客を沸かせ、参加させる工夫も随所にみられた。大衆演劇の工夫である。楽しませるためには、ナンデモあり。そういうところにも、伝統に風穴をあけたいという海老蔵の強い意思を感じた。『伊達の十役』での斬新な舞台装置の工夫も採用されていた。ただ、コクーン劇場の制約もあったのだろう、ここでは宙乗りや、セットのいくつかのみで実現していた。また、『GOEMON』もそうだったのだが、役者が観客席を走り回り、観客の興奮をいやがおうにも高めていた。最後の場では海老蔵自身が金粉(?)をまぶしたピンクの花びらを「花咲爺さん」さながらに、観客席を回りつつ撒くなんていうのもあった。楽しさもここでマックスに達した。