yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

大塚英志著『伝統とは何か』ちくま新書、2004年

最近何冊か読んだ「伝統」を扱った本の中でいちばん面白かった。というか学者らしくない切り口が、いかにも大塚英志らしくて、その知的好奇心が少しも衰えていないことが分かってうれしかった。

さすが大塚英志、「伝統とは何か」を探るのに米アニメ短編映画、『ベティ・ブーブ』から始めている。アメリカではあまりにも有名なベティさんの画像。

イニシエーションの「儀式」が伝統に基づくものであるという謝った理解を糾すのに、『ベティ・ブーブ』の例から入るというのは、アニメオタクとして名をはせた大塚らしいし、その着眼にあらためて感心する。文化人類学ではイニシエーションは「通過儀礼」ということになるけれど、それと伝統とを絡めて論ずるところ、文化人類学出身(?)の大塚の着眼が光っている。

いわゆる「結社」はどの社会にもつきものだけれど、それが伝統に根ざしているのではなく、むしろ新しい階級が伝統を創り上げるのに生み出された後付け策であると、大塚はいう。彼のアプローチは伝統の源からスタートするのではなく、すでに「伝統」と認知されているものから、遡行して行くというやり方である。

そもそも「伝統」とは最初から「ある」ものなのか、それとも「求められる」ものなのか、そのこおとを冷静に考え直してみる必要がある。「伝統」を求めた十九世紀のアメリカの中産階級。つまりは新しい「市民」たちが、しかし、「伝統」への熱心さとは裏腹に「伝統」の内実を検証することはほとんどなかったことは、もう一度、注意しておきたい。

ここにこの本の論の要諦がある。アメリカにおいて必要とされた「伝統」はそのまま、日本にもあてはまる。

だが本書では、「伝統」とは「ある」ものではなく「求められ」、それゆえに「作られれ」いく側面があることを検証してみたい。

あとの章をはすべて柳田國男、折口信夫の「伝統」論の検証にあてられている。そしてそれは日本においては、民俗学、文化人類学ですでに確固たる伝統論を確立したとされる柳田、折口に挑むことになるのだ。柳田に「たてつく」のは神にたてつくくらいのことだと聞いたことがある。真実かどうかは定かではないが、柳田がその分野では確固たる地位を築いていることを示している。だから、ここに大塚の並々ならない決意をみる。

私がいちばん興味を惹かれたのは、「柳田は『仮構の母』の物語を紡ぎだすために(イニシエーションの過程で)民俗学という「ファミリーロマンス」を作りださなければならなかったのだ」という大塚の指摘である。これは深くサイコアナリシスに入り込んだ分析で、民俗学のアプローチを超えている。

何故なら、彼は「近代」という、「個」が帰属する伝統を新たに作りださねばならない時代に生まれたからである。その時、来歴否認の子供のファミリーロマンス的想像力(柳田の自分は貰い子であるという妄想を指す)は「伝統」を創造してしまう力として作用したのである。

もちろんここにはサイコアナリシス的な分析のみならず、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」の影がある。非常に丹念に資料を集めそれを詳細に検証している跡も窺える。でも全体を貫いているのは学者らしからぬ(トリックスター的)着想、分析で、それがワクワク感を醸し出している。もっとも大塚はそう読まれるのを良しとしないかも知れない。彼が持って行きたかったゴールはおそらく彼がいうところの「公民の民俗学」であり、それは彼のコトバを借りれば、「『日本』や『ナショナリズム』という、近代の中で作られた「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きうるためにどにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一の手段である」ということになるだろうから。