どちらも私には初めてのアーティストである。指揮者のシュテファン・ザンデルリングさんは1964年生まれの46歳、ピアノのアレクサンダー・コブリンさんは1980年生まれの30歳で、お二人と比較的お若い。また今回初めて兵庫芸術文化センター専属の管弦楽団を聴いたのだけれど、メンバーが若い。若い演奏者と若いオケとの共演で、実際の演奏もそれを十分に感じさせるものだった。プログラムのちらし。
プログラムは二部構成になっていて、前半がコブリンさんとオケによる「チャイコフスキーピアノ協奏曲第一番」、後半がオケのみの「ショスタコーヴィッチ、交響曲第十五番」だった。
まず、「チャイコフスキーピアノ協奏曲第一番」はあまりにも有名な曲なので、それをどう彼らしく聴かせるのかに興味があったが、予想に反してまったく奇を衒わないもので至極正統派の演奏だった。だからといってつまらない平板なものというのではなく、この協奏曲の要諦であるロマンティシズムを十分に味合わせてくれた。この協奏曲はリヒテル、アルゲリッチのCDをもっているけれど、このふたりの大御所と比べるとたしかにあっさりとしていた。でもその「あっさり」が逆に彼の個性を際立たせているのではないかと思う。この協奏曲は見せ場がいっぱいあって、それを「魅せたい」という欲望を抑制するのは大変だと思う。それをここまで自制して弾けるというのは、やっぱり大した演奏者なのだと思う。
コブリンさん、このセンターの常連だということで、客席も満席、観客との交歓が感じられるほのぼのとした雰囲気が会場を満たしていた。私は先日の中島美嘉コンサートのときと同じく最前列の席で、オケのチェロ、ベース部門の演奏者の様子がつぶさにみれて、ちょっと得をした気分だった。
そして「ショスタコーヴィッチ、交響曲第十五番」、じつに楽しかった。ショスタコーヴィッチを演奏会で聴くのは今までになく、いろんな発見があった。ショスタコーヴィッチがモダニストだと初めて知った。演奏を聴いていると、モダニストの詩人たちの顔が次から次へと思い浮かんだ。「伝統」に抗ったモダニスト詩人たちの実験的試みが。なかでもこの交響曲の随所にみられるアリュージョン、引用、そしてなによりもコラージュの手法が、文学のモダニストたちと共通した資質だと感じた。
第4楽章まであるのだけれど、各楽章にそれぞれテーマに即した先人作曲家の旋律が組み込まれている。それも何カ所も。こういう実験的試みはショスタコーヴィッチが当時のソ連当局の監視の目を逸らすための苦肉の策だったという。案外ショスタコーヴィッチはこういう「悪戯」を楽しんでいたような気もする。当局の目をどこまではぐらかし、その限られた条件の中でいかに優れた曲を生み出せるのか。そういう「挑戦」をヨシとした人だったのではないかと思う。最近になってショスタコーヴィッチの株があがっているというのも、そういうところに理由があるのではないだろうか。