yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

片山九郎右衛門師の女性造型が見事だった舞囃子「砧」in「杉浦元三郎七回忌 追善能」@京都観世会館1月19日

この日、二階席だったのだけれど、一階席よりも舞台全体がみわたせた分、演者の優れたところ、そうでないところがより強調されて目に映った。片山九郎右衛門師はもう非の打ち所のない完璧の上を行く完璧。眼福に酔った20分余りだった。

「砧」は仕舞は見ているが舞囃子は初めて。いつかフルの『砧』を見たい。心からそう願った、そんな舞囃子だった。

『砧』は浅見真州師の昨年のパリ公演を録画して、何回も見直している。すばらしい舞台だった。録画したもので感情が舞台と共振するというのは初めての経験だった。記事にしている。

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九郎右衛門師の砧の女は、浅見師のものとは造形がかなり違っていたように感じた。面をつけているかいないかという差もあるかもしれない。それでもやはり演者の役との距離が、お二人それぞれ解釈が異なっていたのだと推察する。

浅見師の「女」は夫の想いへが、本人の存在自体を危うくしてしまうほどの壊滅的というか、破壊的な重さをもって迫ってきた。映像で見てもその熱量の高さ、報われないことへの恨みが、ひたひたと迫ってきた。私の中の女の部分(まだ残っているとしてですが)が、それに強く反応した。彼女の深い哀しみに同調し、涙した。

一方、舞囃子は後場の一部を切り取ったもの、印象はかなり違っている。九郎右衛門師の「女」は、夫への恨みを抱いた妄執に囚われつつも、夫を責めるだけではない雰囲気があった。許しというか、諦めというかそんな風に感じた。しかもその諦めの中に、優しさがあった。加えてはんなり感があった。あの世でも「女」をしています的な、そんな華やかさが匂っていた。

九郎右衛門師の舞はどこまでも端正。でもその中に匂い立つはんなり感、素敵でした。

 

以下に演者をアップしておく。

小鼓    曽和鼓堂

大鼓    石井保彦

笛     左鴻泰弘

太鼓    前川光長

 

地謡    大江広祐  橋本光史  片山伸吾 

      浦田保浩  味方 玄