yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

優しさに溢れた羽生結弦選手の「春よ、来い」in フィギュアスケート世界選手権2019 エキシビション

戦闘的なフリーの「Origin」とは打って変わって、こちらはファンタジー作品から抜け出てきたような可憐な妖精、羽生結弦選手。見ているものを包み込む優しさが全身から放射されていた。それを浴びれば夢の中に素直に導かれてしまう。そして癒される。そんな魔法をかけられた気がした。

この魔法にデジャビュ感があると思ったら、それはあの「花は咲く」に出くわしたときの感じだった。東日本大震災の被害者の一人でもあった彼が、慰霊と鎮魂の想いを込めて舞った「花は咲く」。彼の放射する死者への強い想いが直球で伝わってきた。と同時に、彼がある種の「無力」、「無念」を抱えて滑っていることも伝わってきて、その繊細な感性にシンクロし、思わず涙が溢れた。その尋常ではない感性から滲み出ている優しさは、どこか浮世ばなれした崇高なものだった。天からのメッセージをメディアムとしてこの世に伝えている感じとでも言おうか。メディアム以上になれない無力感を感じつつ滑っていたんじゃないだろうか。天(の決定)に抗するには無力。彼ができるのはひたすら想いを死者に寄せることだけ。それが少女から受け取った「花」に表象されているように思えた。羽生結弦選手が少女から花を受け取ったとき、鎮魂のドラマが一つの終焉(cloure)を迎えた気がした。

この「春よ、来い」には、もう一歩進んだ境地が現れていたように感じた。「完結」(close)させるのではなく、ずっとずっと想い続ける。無力感ではなく、もっとこちらに迫ってくる強さがあった。そのエネルギーの強度は、単に羽生結弦選手の「人間存在」としての強さだけではなく、彼の優しさをも帯びている。だから放射されると、私たちを包み込んでくれるのだ。

滑走が始まる。手を差し出し、そしてその両手で自身を覆い包み込む。死者への想い、そして彼らの想いを自身に引き寄せる動作。「あなたたちをこの心で、身体で想い続ける」というメッセージが発せられる。表現が優しさに満ちているのは、彼岸へのメッセージだから。美しい腕の動き、それをより強めている袖のひらひら。死者をその美しさで慰撫する。優しさで包み込む。「花は咲く」のときより数段確信犯的な動きであり、流れである。

ジャンプは最小限に抑えられている。代わるのがバレエダンサーを超える滑らかなスピンであり、滑走。そして身体のひねり。このムーヴメントには切れ目がない。いささかの「中断」もない。天——羽生結弦——地がどこまでも滑らかに、自然につながっている、連鎖している。この世ならぬ美しさ。一個の「スケーター」がそこにいるのではなく、人という有機物を超えた存在がそこにいるという感じがする。天とつながった存在。

手の振り、脚の曲げ、身体のひねりといった直線、曲線をこれ以上ない完成度の高さで組み合わせている。おそらくマニュアルはあるんだろうけど、それと同等の羽生結弦選手の即興的表現箇所もあるのでは。自然な感じがするのはそのためだろう。

優雅な舞。彼が左手をリンクにつき、右手を高く上げているのは、まさにその優雅さが天とつながっていることを知らしめるもの。天が寿いでいることを知らしめるもの。でもそんな想像がなくても、そこに立ち現れるのは、何かこの世ならない崇高な美。その美の体現者としての羽生結弦選手。

そして、滑りながら広げた両手をリンクについて回るスケーティングは、彼の地(死者)へのアタッチメントを想起させる。こういう動作は今までにはなかったように思う。ここに彼の並々ならないアタッチメントを感じる。単にスケーティングの一つとしてではなく、明らかなる意図で持ってこの動作を入れたのだと思う。

後半の腕を上げて飛び上がる様には、苦しみからの解放感が表現されているように感じた。そこには死者の鎮魂という「ステージ」から一歩進み、彼らを寿ぎ、解放するという彼の想いがあったのでは。

羽生結弦選手が他のどの選手とも異なっているのは、単に演目としてプログラムをこなすのではなく、パフォーマンスに強いメッセージがあることだと思う。そのメッセージは彼の「思想」とでもいうべき想いが込められている。でも決してプロパガンダではない。実に自然体なのだ。そういうところに、「羽生結弦」がスケーターである前に一人の人としていかにピュアな人か、優れた人であるかが窺えるように思う。

嗚呼、でもこんな美しい人が今までいたでしょうか。こういう人を、その演技を同時代的に享受できる幸運を噛み締めている。