yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦が「羽生結弦」であるために−−競技としてのフィギュアを英雄伝説に変貌させる羽生選手の天才

羽生結弦という選手は「甦りのドラマ」を演じる芸術家。

世界の人を感動の渦に巻き込んだフィギュアスケート世界選手権の男子フリーでの演技。まずその他選手が到達できない芸術性の高さ。そして技能レベルの卓越。これらが彼の素晴らしさ、魅力であるのは間違いない。どこか「聖」なるものを纏った演技、それが「俗」としての点数結果に出ているのは、慶ばしい。

さらに感動的なのは、彼が身をもって演じた「復活」のドラマ。もちろんそれはSPで5位だったのを、パーフェクトなフリーの演技で大逆転をして金を獲ったことにいえる。これ、既視感があるんですよね。ついこのあいだの四大陸。彼はSPをフリーで挽回。加えて、そのフリー中でもミスを最後の2ジャンプの構成で挽回していた。

もちろん羽生結弦さんの中ではそういう「意識」はないだろう。でもこの「演出」ができるというのが彼の神がかり的なところ。それは彼の高い精神性から来ている。演出家はもちろん人ではなく「神」。神というのに語弊があれば「天」。こういう「甦りのドラマ」を目撃すると何か人智を超えた力が働いているようにしか思えない。

彼が甦りのドラマを演じる人だというのを強く感じ、昨年12月に「羽生結弦選手はヤマトタケル?」という記事にしている。これは今シーズンEX、「白鳥」の演技に感動して書いたもの。

ヤマトタケルは悲劇の英雄ではあるけれど、白鳥になって甦り、天高く飛んで行ったという。羽生結弦選手の「白鳥」は奇しくも彼の今回の英雄伝説を表象していた?そう思えて仕方ない。聖の高みにとこまでも近づく選ばれし人、羽生結弦。

しかしながら、「俗」にしか属せない私としては、4月1日朝、弓弦羽神社に出向き、「ユヅが優勝しますように!」と書いた絵馬を奉納した。「優勝します!」としたかったのだけど。この結果を「予測」できていなくちゃならなかったんですよね。