ものすごいものを見てしまったというのが、最初の感慨である。とにかく格が高い。それでいてどこか緩みがありそれが面白い。
静かな前場と荒々しい狂いの舞が舞台全体を占める感のある後場の対比。前場で春満の残した手紙を読んで嘆き悲しむ高師四郎。面を付けない直面なので、感情の吐露がリアルに伝わってくる場面である。収斂する嘆きが、強い電極を帯びつつ一つの方向に向かっているのがわかる。これが後場では一転、文を挟んだ笹を持った放下姿で舞い狂うのだから、見ている者はこの落差に驚いてしまう。
片山九郎右衛門師の四郎は主君を思う至誠の人となりの前半と、募る想いの挙句の狂人の後場の対比を見事に描き出された。その時々の息遣いも聞こえるほどの、体温も感じられるほどの熱演だった。狂いの舞は曲舞が基になっているとわかるもので、思わず興奮してしまった。
もとあった『高野物狂』の部分を味方健氏が書き改められたこの曲。地謡方はご子息の味方玄師、味方團師のお二人。子方は味方團師の長男、味方慧さんという一家総出での舞台だった。
この日の演者一覧とチラシに付いた解説は以下である。
<演者>
シテ 平松殿旧臣、高師四郎 片山九郎右衛門
子方 平松殿遺児、春満丸 味方 慧
ワキ 高野山僧 宝生欣哉
アイ 四郎の下人 茂山逸平
小鼓 吉阪一郎
大鼓 河村 大
笛 杉 市和
後見 青木道喜 橋本忠樹
地謡 味方 團 深野貴彦 河村和貴 河村浩太郎
味方 玄 河村和重 河村晴道 浦田保親
<作品解説>
元禄本ニヨル 高野物狂(こうやものぐるい)
常陸国の平松殿が亡くなり、家臣の高師四郎が平松の子の春満を撫育していた。主君の忌日に菩提寺に詣でる四郎に、下人が春満の置き手紙を届けに来る。そこには春満の出家の覚悟が記されていた。四郎はともかくも若君の後を追い、常陸の国を後にする。 〈中入〉
場面は紀州、高野山に変わる。高野山の僧が、近ごろ師弟の契約をした春満を伴って、三鈷の松へと出掛けた。そこへ物狂となった高師四郎が文竹を肩に、幼い主君を訪ねてやって来る。僧は、物狂はこの高野の山内には入れぬと制した。シテは弘法大師の例を引いて、僧と問答をはじめ、そして高野の縁起を語る。また静謐な高野の内に声明の声に触れることの境地を語り、舞い狂った。やがて春満は、この物狂こそ傅・高師四郎だと気づき共に名のる。そして高師四郎も髪を下ろし仏門に入る。
流派によって、詞章や演出の違いが多く見られる曲である。現行の観世流では、子方を稚児姿とし、高師四郎の説得のもと、家を継ぐことになっている。
今回は元禄本のキリ部分の詞章を練り直した味方健改作による上演となる。
前場での高師四郎を支配するのは、「主君への報恩」を貫くという自己完結精神である。それは身体の中心に向かう負荷を帯びたベクトルであり、そのまま後場に突入する。その一極集中的なベクトルの方向が、後場では「物狂い」という乱舞へと開放される。この乱舞を収めるには、元の四郎に戻るのではなく、狂いの地平位の先へと進むしかない。彼の選択は、俗の価値観の「誠」を貫くのではなく、より高位の精神的境地を目指すとものとなるはず。つまり、四郎によるこの「主君」春満連れ帰り劇の顛末は、彼が春満に倣い仏門に入るというところに落ち着くのが自然である。
江戸時代の「四郎の報恩」をテーマとした『高野物狂』の作劇を、味方健師が新たに「四郎仏門に入る」に書き換えられたという。その結果、昨日は江戸のものよりもはるかに哲学的思索に満ちた『高野物狂』を私たちは拝見することになった。格が極めて高いと感じた理由は、おそらくそこにあったのだろう。
京都観世会の解説にもあるように、味方健氏がこの曲の由来と現在の形に至る経緯を、資料をもとに詳細にかつ学術的に明らかにされたのが以下の「<高野物狂>今昔」(『銕仙』571、2008年7月)である。銕仙会の「曲目解説」に掲載されているもののスクリーンショット。
味方氏の解説によれば、この曲の由来は『三道』(1423)に『高野』と記載されているもので、『五音』には「高野 節曲舞 元雅曲」と記載されているという。これらから味方氏は、この曲はもともと元雅作の曲舞に世阿弥が曲をつけたものだろうと推測されておられる。「五音」とは世阿弥の伝書にある「祝言・幽曲・恋慕・哀傷・闌曲」を指す。主として宝生で伝承されて来ていたものを、観世流が正式に演目に採り入れたのが江戸時代(明和1764-1772)になってからだという。封建思想・価値観が支配していた当時、当然『高野』のテーマも結末もそれに倣ったものであった。
そこを味方氏は、「先君から養育を委ねられた高師(四郎)にとって、春満に出家されては重代の家人としての面子が立たない」と解釈されている。これに続く一節が味方氏の解釈を際立たせるところである。以下。
お家大事という倫理が、幼いながら身を捨て、家を捨て、一切を放下して仏門にはいろうという決死の道心を阻害している。いずれ、歪んだ歴史社会は、その社会の要求する権威が人間性に先行する。その中にあって、よりラディカルな生きようを求めて苦しむのが、文芸であり、演劇であろう。高師もともに仏道に入ろうとするほうがずっと筋が通っている。
味方氏がとくに訴えたかったであろう箇所に下線をひいた。それをより一層強く訴えかけておられるのが以下の箇所。
高師の文笹(あるいは挿み文)をかたげた放下姿は、世阿弥が『三道』にいう遊狂であり、さらにいうならば風狂なのだ。能は芸であり、能本は文芸であって、風雅と洒落が欲しい。
この訴えかけは能の真髄をついたものと言える。味方氏が最初に提出されているように『高野』が元雅作の曲舞(闌曲)が原曲であるなら、それは闌曲の自由奔放さを纏ったものだったはずである。たしかに、九郎右衛門師の演じた四郎の物狂いのサマは、奔放といえるほどの自由さ、ぶっちぎり感があった。
この日は満員で二階席にも観客が入っていた。今年に入って最も多い観客数。多くの方のお目当はこの演目にあったのではないかと、推測している。私は前日にも京都観世会館で「片山定期能」を見てかなり疲れてしまい、この日は最初の演目を飛ばしてしまった。残念。
この日最後の演目、『国栖』も素晴らしかった。評はこの後書くつもりである。