吹田市のご自宅で亡くなられたという。79歳だった。
上方を代表する女形。京都弁のはんなりした喋り方はいつ聞いても耳に心地よかった。近年歌舞伎ではこういう上方女形は少なくなっているので、亡くなられたのはとても残念である。もう少し長生きして、後進の指導に引き続き当たって欲しかった。昨今は若手女形役者のほとんどが東京在住のせいか、上方狂言を演じるとどこかに違和感がある。だから秀太郎さんのような「骨の髄まで上方女形」の指導は貴重だったはずである。
どんな女形にも上方情趣を加味するところに、彼の心意気を強く感じた。それはお父上の十三代目片岡仁左衛門丈のあの優しく雅やかな京都弁に通じるものでもあった。弟の仁左衛門にもそれは共通している。
このように書いているうちにも、秀太郎さんのあの独特の口調が耳に響いている。自家薬籠中の役といえば、やはり『恋飛脚大和往来』の「封印切」での井筒屋おえん(おゑん)役だろう。ひいきの忠兵衛の肩を持ち、さんざんっぱら(長兄の我當丈が演じる)丹波屋八右衛門をコケにするところが、おかしくも圧巻だった。とくに、「天井裏のネズミですら『チュウ、チュウ、ちゅうさん』となくのに、ハッつあん、あんたときたら畜生にすら嫌われて・・・」というセリフがツボにハマった。上方の意気地がこの女郎屋の女将のことばからよく伝わって来た。これは他の役者では出来ない芸当だったと思う。
このおえん役を最初に見たのが1994年11月の歌舞伎座公演だった。忠兵衛は(もちろん)三代目鴈治郎(故坂田藤十郎)で、この鴈治郎・秀太郎・我當の組み合わせは鉄板だった。三代目鴈治郎の忠兵衛のあの封印を切ってしまった後の絶望感の描出が素晴らしく唸ったけれど、それと同程度に秀太郎が梅川・忠兵衛の道行きを(それとは知らず)賑々しく送り出すところの対比が切なく感涙した。
そのあとも私が見た公演では、1999年4月歌舞伎座、2004年1月大阪松竹座、2007年1月大阪松竹座、2007年10月歌舞伎座、2009年12月南座顔見世、2015年1月松竹座(これは当ブログ記事にしている)、 2018年11月南座顔見世といった公演すべてで秀太郎丈はおえん役を務めている。他の役者では秀太郎丈の代わりが務まらなかったからだろう。こちらもまた忠兵衛の生まれ変わりであるかのような三代目鴈治郎(藤十郎と呼ぶよりも私にはこちらがしっくりくるので)との絶妙の阿吽の呼吸は、上方芸のイキのお手本だったような気がする。
もう一つ印象に残っているのが『伊勢音頭』(2011年7月松竹座)の万野役。これは当ブログ記事にしている。
最後に彼を見たのが昨年(2020年)1月大阪松竹座「壽初春大歌舞伎」公演中の『義経千本桜』の義経役だった。最近では以前のような闊達さが減じているように感じられた。それでも気力で舞台を務め上げるという意思がひしひしと伝わってきて、ちょっとホロリとした。三代目鴈治郎や秀太郎丈のあの独特のクドサが、関西人の私でもいささか辟易することがあったのは事実。でもお二人とも舞台でもう見ることが叶わない今になって見ると、惜しく、懐かしい。