yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『ダイヤ色 梅川忠兵衛』たつみ演劇BOX@木馬館8月27日夜の部

元の人形浄瑠璃では『冥途の飛脚』、歌舞伎では『恋飛脚大和往来』として演じられるもの。

「封印切」と「新口村」の二部に分けた構成。ダイヤさんが忠兵衛、瞳太郎さんが梅川、たつみさんが八右衞門、小龍さんが新町の女郎屋の女将、おゑん。

特筆すべきは構成の斬新さ。浄瑠璃、歌舞伎脚本(本)を基にして、かなりの改編が施されていた。いずれものハイライト部を取り出して組み合わせてあった。ミニショーを潰しての公演とはいえ、芝居そのものをわずか1時間10分程度の時間内に収めなくてはならない。涙をのんで削らなくてはならない箇所がいくつかあっただろう。そこを筋が通るように、しかもよりわかりやすくなるように、再構成されていた。短縮したにもかかわらずインパクトがあったのは、組み方が効果的だったのだろう。

時間内に収めるための工夫も随所に見られた。幕と幕との間、場と場の転換に幕前が有効利用(?)されていた。大衆演劇の場合、劇団員が総出で場面転換をしなくてはならない。幕前で登場人物が喋っている間に、バックの幕内で、座員たちが装置や大道具を動かして次の場面設定をしているわけで、大衆演劇ならではの事情。それを逆手にとっているのはお見事。

短い時間内で、より効果的に人物関係を立ち上げるための工夫が見られた。特に八右衞門の人物像。人形浄瑠璃と歌舞伎とではこれが180度違う。私は最初に歌舞伎版を見ていたので、後で文楽を見たときかなり混乱というか困惑した。歌舞伎では悪人になっている八右衛門が文楽ではきちんと良識のある商人になっていて、未熟な忠兵衛を諭す役だったから。「金を使い込んだ」のは忠兵衛その人だった。いわば大人の八右衛門がまだ青臭い忠兵衛の「教育者」の役割。当時の商人社会の掟から判断するに、こちらの方が説得力があったのだろう。

第一部 「封印切」
ところがこれが歌舞伎になると、八右衛門は忠兵衛を騙る悪者になっている。それも梅川を挟んでの恋の鞘当ての結果であり、文楽版のように理をわきまえた大人ではない。挙句の果てに忠兵衛をいじり倒して、ついには封印を切らせるまで追い詰める。実に憎々しい男になっている。封印を切るというドラスティックな行為がより効果的に立ち上がるようにするため、そしてその後の忠兵衛と梅川の苦悩をより効果的に描くため、八右衛門の人造型を文楽と変えたのだろうと思われる。いかにも上方らしい工夫。これでもか、これでもかと八右衛門が忠兵衛を追い詰める、そこに、「(観客を含む)人の情にどっぷりと淫した上で、その抜き差しならない情況を描く」という「上方方程式」が窺える。

で、私はこちらを先に見ていたので、文楽を見たとき、「ナニ、このあっさり感!」なんて思ってしまった。

もちろん上方歌舞伎の定番中の定番。何度見たことか。そのほとんどで忠兵衛を三代目鴈治郎、女郎屋井筒屋の女将おゑんを秀太郎、八右衛門を我當だった。梅川は時々で違った。この配役で判るように、封印切の場はこの三人の絡みで、上方方程式を際立たせるわけである。八右衛門に追い詰められた忠兵衛が、小判が入っていることを示すため、金子包みを火鉢にコツコツと打ち付ける。何度もやるので包みは破けてしまう。その時の忠兵衛の表情の変化が見せ場。破ってしまったと悟り、立ち上がって破れかぶれに小判を撒く場面がクライマックス。厭というほど見たので、鴈治郎といえばこのクライマックスシーンの表情が浮かぶほど。

ダイヤ忠兵衛がこのいじめられっ子役を演じると、どこか可愛い感じがつきまとう。鴈治郎のあの独特の「くどい」風情はない。当然といえば当然。現代版の忠兵衛と言えるかも。今の観客にはこちらの方が受け入れやすいかも。

このクライマックスに至る八右衛門の忠兵衛いじりも、ここに持って行くための重要な場。それを後押しするのが井筒屋おゑんの忠兵衛をサポートする口説。これは秀太郎の十八番。小龍さんはそっくりそのまま使っておられた。

そして、憎まれ役の八右衛門。おゑん、忠兵衛連合軍との悪態の付き合い、我當さんのよりもたつみさんの方がより憎らしかった。これ不思議。まるで詰将棋。相手の裏の裏まで読んで、先周りして相手の一手を塞ぐ。この陰険さとそれを支える饒舌。上手い。歌舞伎を参考にされたのだろうけど、臨機応変に替えておられた。最後の捨てセリフ、「封印を切ったら、首が胴にはついておらんぞ」。憎々しくも、リアル。

歌舞伎では忠兵衛と梅川が「晴れて」店を出るところで、「めでたいと申そふか、お名残り惜しいと申そふか、千日云ふてもつきぬこと」と廓一同の詞が入る。受けて、「エ、その千日が迷惑」と忠兵衛。「千日」、千日前は今でこそ大阪きっての繁華街だけど、当時は刑場のあったところ。それを連想させる詞になっている。二人の行く末を暗示する仕掛け。これが入ることでよりリアルになるのだけど、今の人にはその連想はできないのかも。

第二幕 「新口村」
「おまけ」シーン。芝居というより、完璧なヴィジュアル版。大衆演劇のラストショー等でよく使われるもの。ここでは定石通り忠兵衛をたつみさん、梅川をダイヤさんだった。でも少しは忠兵衛の父、孫右衛門と梅川の絡みが入れてあった。歌舞伎ではここを思いっきりしんみりと描きこむ。今の目で見ると、かなりしつこい感じがするほど。で、私としてはこの親子の別れシーンをまるで映像のようなヴィジュアル度の高さ、美しさで魅せてくれた方が嬉しい。また、納得できる。

まあ、大衆演劇界で、お美しいこの二人に敵う梅川忠兵衛はありえませんよ。目の保養。雪の降りしきる中、黒紋付着物の忠兵衛と梅川。降りしきる雪の「白」と二人の着物の「黒」の対比が生きる。本当ならこんなはずはないのだけど、そこは二人の道行をより効果的に見せるため。また死に向かう二人の悲劇をせめて衣装で「寿ぐ」という趣向でもあるだろう。

この日この狂言を観た人は、例外なく大満足だったと請け合える。非常に「濃い」体験だった。