yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「封印切(ふういんきり)」『恋飛脚大和往来』in 中村翫雀改め四代目中村鴈治郎襲名披露 壽初春大歌舞伎@松竹座1月19日夜の部

以下、『歌舞伎美人』よりの引用。

新町井筒屋の場
<配役>
   
亀屋忠兵衛 翫雀改め中村 鴈治郎
傾城梅川     中村 扇 雀
槌屋治右衛門     中村 橋之助(予定の我當が急病のため)
井筒屋おえん     片岡 秀太郎
丹波屋八右衛門     片岡 仁左衛門

<みどころ>
飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は井筒屋抱えの遊女梅川と深い仲。身請けの半金の工面ができずに窮しているところ、梅川へ横恋慕する飛脚仲間の丹波屋八右衛門が、梅川を身請けすると言い出します。忠兵衛への悪口雑言を繰り返す八右衛門と、それを聞きつけた忠兵衛が言い争ううち、忠兵衛が懐に預かり持っていた公金の封印が切れてしまい…。

「玩辞楼十二曲」の内の一つ。近松門左衛門の『冥途の飛脚』を基にした『けいせい恋飛脚』を歌舞伎化した作品です。上方和事を代表する忠兵衛役を新鴈治郎が勤めます。

「玩辞楼十二曲の内の一つ」と銘打っての演目。これは初耳だった。今までいやというくらいこの演目は観てきた。そのほとんどが新鴈治郎のお父上の坂田藤十郎が忠兵衛を演じたもの。もともとは浄瑠璃だから、浄瑠璃版の『冥途の飛脚』も何回か(通しではなかったけど)観ている。私個人の好みとしていえば、浄瑠璃版の方がいい。そういえば今月、文楽劇場でも『冥途の飛脚』が乗っている。歌舞伎になると強いemotional investmentが入ることが多く、そのベタベタ感がときとして煩わしい。この『恋飛脚大和往来』中の「封印切」がとくにそう。「新口村」のほうがマシ。同じ近松物でも『曾根崎心中』の方はもう少し、抑制が効いているように思う。

で、今回の「封印切」も観るのに気が重かった。そして、残念なことに予想通りだった。

「じゃらじゃらと」という表現がなんども劇中に出てくるが、まさにそのじゃらじゃらが全編を満たしていた。何というか役者のナルシシズム。近松もビックリだろう。これが三代目鴈治郎(現藤十郎)の作り上げた忠兵衛像というのは、あまりにも哀しい。今度襲名した鴈治郎もそれを継承することを期待されているので、こういう演じ方になってしまうのかもしれない。でももったいない。彼には独自のユーモアのセンスがあり、それが実験的な歌舞伎では発揮されきていた。だから、お父上の忠兵衛とは違った行き方があってもよかったのにと残念至極。

「またあれか」と、私のように「敬遠」する人も多かったのでは。客席はフルではなかった。襲名興行なんだからもっと埋まっていてもよかった。その分、友人と私の席は前から三列目というかってなかったほどの良席。でもこんな前の席なのに、うれしくなかった。1月最初に観た「新春浅草歌舞伎」を満たしていたあの熱気がなかったから。舞台が近いと演者のそういう熱気が直に伝わって来る。それがなかった。

「玩辞楼十二曲」の内の一曲なんてことになると、たしかに伝統の重みはハンパないだろう。でも、だからこそ、新しい演じ方が必要なのだ。それによって自分自身の「忠兵衛」像を打ち出せるかどうかで、客が見続けていてくれるかどうかは決まる。能じゃないんだから、伝統はぶっ壊すためにあると思う。そこから新しいもの、時代に則したもの、観客に「来て良かった」と思ってもらうものを創りだして行かなくては、歌舞伎という演劇の意味がないと思う。

一人だけ大御所の中で新しさを出せた人がいた。仁左衛門。八右衛門をやるにはオトコマエすぎましたけどね。