yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

VR能『攻殻機動隊』@世田谷パブリックシアター 8月21日−−能と『攻殻機動隊』の融合は成功していたか?

 

「実験」と実舞台の乖離

あまりにも暗い舞台

舞台が暗くて二階席からはよく見えなかった。再演の際は照明を考えるべきだろう。「最新技術を駆使して」ヴァーチャルリアリティ(VR)空間を描出していた?確かに舞台上の役者が消えるところ等はそれが使われていたのだろうけれど、ごく部分的だった。やるからにはもっと大々的に、例えばメトロポリタン・オペラで使われるド派手なCG映像との組み合わせのような実験の方が「話題性」があっただろう。第一、あれほど舞台が暗くては、その最新技術が何だったのか、よくわからずじまいだった。

これを見ている間、建築デザイナー、杉本博司氏演出の実験文楽『曽根崎心中』が甦ってきた。共通点は、舞台照明の暗さ、そして実験的企画と実舞台の齟齬である。杉本氏演出舞台については、記事にしている。

役者の影が薄い

舞台に立つ素子(役者)に存在感がなかった。能のシテは全エネルギーをその身体に蓄え、それを(マゾヒスティックに)抑制した形でしか表に出すことを自身に許さない。だから静止しているように見えても、その身体から放出されるエネルギーを観客は感じ取る。優れた役者はそうである。それを目撃し、それを共有するところに、能の醍醐味の一つがあると私は信じている。この「能舞台」での役者には、それが感じられなかった。ただ素子もどきの人形が立っているだけに見えた。役者の問題というよりも、むしろ演出の問題だろう。だって、目立ってはいけなかったんですよね。あくまでも「VRの役者」であるべきで、能役者の身体そのものが求められていたわけではなかったから。だから役者はその演出に「忠実だった」ということだろう。

しかし、しかしである。私が見たかったのはあの素子がVRの中にどう立ち上がってくるかということだった。その場に立会い[eye-witness]たかった。あんなに影の薄い存在ではなく、実在として。その手応えは最後まで確認できなかった。

出演者(役者)の想い

パンフレットに掲載されている出演者—坂口貴信師、川口晃平師、谷本健吾師、大島輝久師—諸師の弁を読んで、なるほどと納得した。なんと!ほとんどの方が『攻殻機動隊』のファンではなかった。それどころか、それがどういう漫画・アニメ・映画なのか、この企画までご存知なかった!『攻殻機動隊』のすばらしさを知った上での上演参加ではなかったことが、かなりショックだった。「素子愛」の私の弁なので、多少の留保はつけていただければとは思うけれど。

ただ、喜多流能楽師の大島輝久師は、それまでご存知なかった『攻殻機動隊』の漫画、映画、アニメ作品を全てご覧になって研究されたとパンフレットに載っていて、さすがと思った。林宗一郎師主催の「能遊び」にゲストとしてこられた折、お話、謡、仕舞を拝見している。

それと、亀井広忠師は作曲を担当されたのだけれど、第三部に登場された折は、「曲」が録音で、ライブでないことを嘆いておられた。かなり失望されたようにお見受けした。

台本がストーリー追いにこだわり解説調

台本(謡本)を読む限り、あまりにも解説調である。ストーリーをたどりすぎ。また最終部の「素子」解釈が「モロ」すぎる。あの映画版『イノセンス』の最終章の哲学を再現したかったのだろうけれど、はるかに及ばなかった。何も解説のない『イノセンス』の最終場面。でもそこに立ち上がる時空間こそが『攻殻機動隊』の哲学宇宙であり、見る側のさまざまな解釈を「許す」という点では能と共通している。だから、この台本にあるように丁寧に「解釈」すると、逆につまらなくなる、薄っぺらくなってしまう。世阿弥の謡の詞章の素晴らしさは、言葉での解説を排して、イメジャリーの連鎖で見る側の心象風景描出を促すところである。それにははるかに及んでいなかった。出来立てホヤホヤの台本だから、しかたないのかもしれないけれど、さらにソフィスティケイトさせる必要があるだろう。

課題は?

能を若い世代にもっと浸透させたい!

「能を若い世代に広めたい」という想いはよく理解できる。実際の観客層の年齢は高止まりしているから。しかしそれが漫画アニメに直結するのには疑問符がつく。例えば歌舞伎は『ワンピース』、『NARUTOナルト』を舞台化しているけれど、果たしてずっとそれらが続いてゆくのか、私見では甚だ疑問である。実舞台をみて、失望しかなかったから。でも若い層を引きつける契機にはなっているように感じた。『ワンピース』、『NARUTOナルト』は10代、20代が好む漫画ですからね。「楽しむ」にはかなりの知的レベルを要求する『攻殻機動隊』が、(若かろうがそうでなかろうが)一般大衆の多くを集めるとは思えません。

この日の観客の多くは、能のファンというよりも、『攻殻機動隊』のファンと思われた。普段見る能の観客席よりも年齢層はぐっと若返っていた。ただし、彼らのどれほどが能を近く感じただろうか、能楽堂に足を運ぼうと思っただろうか。実験を見せられた後で、その実験をもう一度見たいという人はいないですよね。

海外ではどういう反応が返ってくるか?

この企画では初演は海外だったのに、このコロナ禍で日本初演になったとか。

欧米、とくにフランス、ドイツではもともと能楽への理解が深い人も多く、観客も集めることができるだろうが、果たしてこの舞台が彼らが思い描く「能」であるかどうか。「ゲテモノを見る」という感じでは海外でもある程度「受ける」かもしれないけれど、それはあくまでも一過性で、能そのものへの理解を深め、ファンを増やすことにはならないだろう。

新作能の難しさ

成功する新作能にするには

新作能を創るのであれば、もっと違った形があったのではと、残念である。今回の「作品」は、能のファンも『攻殻機動隊』ファン双方をがっかりさせたように思う。『攻殻機動隊』はどちらかというと、文楽の舞台の方が演出できやすいように感じた。素人考えで申し訳ないのですが。

そういえば漫画を基にしたという梅若実師の『紅天女』もありました。でもあれは今回のものとはちがいあくまでも能の空間にこだわっていて、その点では百パーセント能だった。話題性で取り上げられるのを狙ったんでしょう。成功したかどうかはわからないけれど。そういえば隣に座った若い女性が「漫画を期待してきたのに」と怒っていたっけ。

新しい(若い)観客層の取り込みを狙うなら、スペクタクル性の際立つ作品、それも登場人物が多い作品にした方がいいのでは?例えば観世小次郎信光が試みたような。

今までに見た新作能のすばらしさ

ただ、今までに見てきた実験的「新作能」のほとんどは、すばらしい舞台だった。梅若実師シテの『冥府行 ネキア』、片山九郎右衛門師シテの『鷹姫』、松岡心平氏作、林宗一郎師シテの『吉備津宮』はどれも新作ではあるのに、すでに能の古典になることが予想できる舞台だった。すべてブログ記事にしている。

話題性でマスコミ受けを狙う?

話題性といえば、この「VR能」そのものが企画段階からマスコミ受けを狙ったものだった?それがよくわかったのが第三部。ここはインタビュー形式で、関係者の紹介とそれぞれの感想で組まれていた。そこで痛いほど感じたのは、VR担当者と演出家の『攻殻機動隊』愛、素子愛。特に「バトーの『もとこー!』の絶叫を入れるか否か」なんていうところと、それへの観客の反応が、可笑しかった。会場はそれで盛り上がっていたけれど、能の関係者はどちらかというと「置いてきぼり」。超えられない溝を感じた。

最後に来場しているメディア関係者の写真会があり、私はここで退出した。翌々日、確かに大々的にこの舞台が宣伝されているのをネットでみた。ただ、中身は読まなかった。