yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「世阿弥−−いま甦る幻の鹿島映画−−」上映会@湊川神社7月12日

結論からいうと、失望した。よく内容を確認しないまま参加した当方にも責任はあるとは思う。そもそも世阿弥の伝記映画と考えたのが間違い。あくまでも白洲正子さんの随筆をベースにした、「白洲正子の『世阿弥』」にしかすぎない。彼女のエッセイはかなり読み込んでいるので、「ああ、これはあそこから採った」とわかるところが多々あった。ただ、彼女のテイストと私のそれとが必ずしも一致するわけでもないので、朗読される箇所に違和感を感じてしまった箇所が多かった。

『世阿弥』というタイトルが不自然。映画全体を見ると、世阿弥所縁の場所、人を探り、訪ねるというのが主旨であり、世阿弥の人となり、芸風を掘り下げるというのではない。私は後者の方を予測し、また期待していたので、いささか肩透かしを喰らった感じがした。また、その「所縁」も、鹿島建設会長だった鹿島映画を主宰する鹿島守之助に重点が置かれていた。鹿島氏一家と白洲正子さん一家とは交流があったという。その縁からこの映画が出てきたのだろう。 

主なスタッフは以下。

企画     鹿島守之助

作      白洲正子

音楽監修   黛敏郎

演出     原田進

製作     岩佐氏壽  久保圭之介

撮影     奥村祐治  手代木壽雄

照明     野村隆三

美術     千葉和彦

製作担当   織本直哉

語り     加藤道子

 

出演能楽師は以下

シテ    梅若六郎 (55世、三世梅若実)

シテ    梅若景英 (現 梅若実 人間国宝)

ワキ    松本謙三 (人間国宝)

小鼓    幸祥光  (人間国宝)

小鼓    北村一郎 

大鼓    安福春雄 (人間国宝)

笛     藤田大五郎(人間国宝)

太鼓    金春惣右衛門(人間国宝)

笛     田中一次

狂言    山本東次郎(人間国宝)

映画づくりを仕事にしている人たちの作品とは思えない出来だった。製作者一覧を見ると、たしかに映画プロデューサー、カメラマン、照明・音響担当者と一応プロを揃えているようだけれど、志を合わせてこの映画を創り上げたようには考えられなかった。バラバラ感が半端なかった。能を見たこともないスタッフが多数派だったのでは。それを束ねて「それらしく」作品を完成させるのが演出家であるはずなのだけれど、ドキュメンタリー専門の方のようで、合わない服に無理やり体を合わせようとしたのが見え見えで、残念だった。

スタッフでは、とくにカメラが良くなかった。能舞台そのものに慣れていない人が撮ったのが丸わかり。構図、アングル共に最悪だった。なんでこの構図?と呆れるところが多々あった。お囃子座方のずっと上手寄り、それも下の位置から仰ぎ見るように舞台を撮っているため、お囃子方の左顔と体の左側が画面の半分くらいを占めてしまっていた。その結果、『井筒』のシテを演じられた梅若六郎師は、画面の左端に写り込んでいるのみ。普通、能舞台の映像では、カメラは正面から撮るのに、なんとも不安定な感じ。「一時的?」と思ったら、なんの、かなりの時間がこのままの構図。地謡方は別に空に浮いたような構図で切り取られていて、その不安定感が酷い。ある種の気を衒ったというか、斬新な風を出そうとしたのかもしれない。終始白けた目で見てしまう自分がいた。

一番腹立たしかっ他のは、『井筒』のシテを演じられた梅若六郎師の演技がまるで風景のように扱われていたこと。つまり能役者としてのなまなましさを捨象されてしまっていたこと。存在感がハイライトできていなかった。これ、ひとえに「白洲正子」を際立たせる「工夫」(theatrical devices)だったのだろう。あの素晴らしい六郎師を「刺身のつま」扱いにするなんて、酷すぎます。 

この『世阿弥』の前に上映された『観世能楽堂—東京 渋谷松濤 神戸湊川—』は鹿島建設が請け負った能楽堂移転のドキュメンタリーで、こちらは興味深かった。

観客は350人を超えていたとか。椅子という椅子は補助席も含めて全て埋まり、ここまでの盛況を能楽堂で見るのは初めてだった。