yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

勘十郎・和生の「人形」、呂勢・清治の「語り・三味線」で魅せる「殿中刃傷の段」in 『通し狂言仮名手本忠臣蔵』(国立文楽劇場 4月)NHK BS放送

この4月に文楽劇場で「大序」から「四段目」まで見て、記事にしている。

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ただ、この放送を見て、前には見落としていたことが結構あったことに気づいた。かなり後ろ席だった所為もあり、人形及びその遣い手の表情をしっかりと認識していなかったかもしれない。それに大抵は、太夫さんと三味線を注視しているから。テレビ画面での大写しにはかなり抵抗はあるのだけれど、それでもこの三段目「殿中刃傷の段」の、最高峰の遣い手お二人の絶妙な遣い方にうなった。その身体と身体がまるでぶつかるような迫力のある掛け合いに、圧倒された。

まず、高師直を担当された勘十郎さんのダイナミックな遣い。身体を左右にひねり、手足(腕・脚)を大仰に使って、師直の厭らしさ全開である。加えて頭が特殊なもので、目が動くし、口も大きく開く。口の奥は赤く塗ってあって、生々しさが際立っている。この口を開けて哄笑する場面は、見モノ。微妙に大きさ、角度を変えているのが、生の人間よりずっとリアル。人間だとこうはゆきませんからね。

この折の勘十郎さんの表情にも注目。遠目ではここまではっきりとは見えなかった。さすが!目の開閉の間の取り方、微妙な頬の動き、顔の傾け方、口の表情の付け方、これら全てがアンサンブルになっていて、師直の人となりを表現している。生身の人間が演じるよりリアルなのは、セリフが濾過され、そのエッセンスのみが身体に刻み込まれ、表情・所作となって出てくるからだろう。人間が演じれば、その役者の精神を通した身体性が介在してくるから、この師直のようなに(純然たる)厭な人間を立ち上げるのは難しい。 

塩谷判官を担当された吉田和生さんは人間国宝。この方を見ていると、お師匠の吉田文雀さんがふわーと浮かんでくる。女方遣い手としては、吉田簑助さんと並ぶ方。簑助さんとは違った遣い方をされるけれども、どちらもウルトラ魅力的。和生さんの女方はクールさが際立っているように感じていた。で、この立ち役である。そのクールさというか、計算しつくされた演技が、師直にいじめ抜かれる判官の悔しい表情と体の動きを的確に表現していた。大仰ではないのだけれど、裡から湧き上がるふつふつとした怒りが、見ているものにダイレクトに伝わってくる。そして同化させてしまう。

この二人の対峙するところは、まさに肉弾戦。でも激しいというより、師直の攻撃に対して、判官が微妙な所作で対抗している。動と静との闘い。いつまでもネチネチと弄り続ける師直の攻撃が激しさを増す。クライマックスがあの哄笑だろう。2、3分は続く。この間、ジリジリと怒りを鎮めようとする判官の悔しい表情。ついに堪忍袋の緒が切れ、刃傷沙汰に。判官に思いを同化していた見る側も、ここで解放される。この対決のサマがここまで真に迫ってくるのは、やはり大写しが効いていたのだろう。

それにしても、呂勢太夫さんの語りが素晴らしい。前の記事にも書いたけれど、完全に復調。というか、ひところちょっと「あれっ?」と思っていたのは、こちらの早とちりだったのかもしれない。より渋く、表現がより豊かになっておられた。経験の全てが彼の中で充実、時が熟するのを待っていたとしか思えない。

そうそう師直の、判官の妻、顔世への横恋慕とそれが叶わなかった恨みが、そっくりそのまま判官自身に向けられる流れが、映像での方がより明瞭に確認できた。顔世からの拒絶の歌も、この後の段で生きるのだろう。曰く、「さなきだに重きが上の小夜衣 我がつまならぬつまな重ねそ」。

『新古今和歌集』に収められた寂然法師の歌で、夜具の褄はそうでなくても重いのに、そこに他人の褄まで重ねられない。「つま」は妻、また夫を表す言葉。それが掛詞になっている。顔世の教養のほどが知られる。放送分では裏音声で 高木秀樹さんの解説も聞けるという、お得感もある。

今月20日からの文楽劇場での『仮名手本』はこの五段目から七段目まで。六段目の「早野勘平腹切の段」が呂勢・清治のコンビになっている。楽しみ。そういえば、先月公演記録鑑賞会で見た歌舞伎公演の記録映画に、歌舞伎のこの段が入っていた。勘平を中村勘三郎(十七代) 、おかるを尾上梅幸(七代)の組み合わせだった。記事にもしている。