能『海士』は今年9月の林宗一郎師の舞台を見逃してして以来、見る機会がなかった。昨年の京都市立芸大の講習で浅見真州師シテのDVD(NHK放映を録画したものらしい)版を見て以来、ずっと見たいと願っていた演目。以下に一昨日の演者一覧を。京都観世らしく、最高の演者たちだった。
シテ 片山九郎右衛門
子方 片山峻佑
ワキ 福王知登
ワキツレ 喜多雅人
ワキツレ 是川正彦
アイ 茂山逸平
大鼓 谷口正壽
小鼓 曽和鼓堂
太鼓 前川光長
笛 森田保美
後見 味方玄 河村博重
地謡 田茂井廣道 大江信行 橋下忠樹 梅田嘉宏
片山伸吾 武田邦弘 古橋正邦 分林道治
「能.com」から「あらすじ」と「みどころ」をお借りする。
<あらすじ>
藤原不比等[淡海公]の子、房前(ふさざき)の大臣は、亡母を追善しようと、讃岐の国[香川県]志度(しど)の浦を訪れます。
志度の浦で大臣一行は、ひとりの女の海人に出会いました。一行としばし問答した後、海人は従者から海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれ、そこから思い出したように、かつてこの浦であった出来事を語り始めます。淡海公の妹君が唐帝の后になったことから贈られた面向不背(めんこうふはい)の玉が龍宮に奪われ、それを取り返すために淡海公が身分を隠してこの浦に住んだこと、淡海公と結ばれた海人が一人の男子をもうけたこと、そして子を淡海公の世継ぎにするため、自らの命を投げ打って玉を取り返したこと……。語りつつ、玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、涙のうちに房前の大臣に手紙を渡し、海中に姿を消しました。
房前の大臣は手紙を開き、冥界で助けを求める母の願いを知り、志度寺にて十三回忌の追善供養を執り行います。法華経を読誦しているうちに龍女(りゅうにょ)となった母が現れ、さわやかに舞い、仏縁を得た喜びを表します。
<みどころ>
この作品の山場は、何と言っても海人が龍宮から珠を奪い返す様子を見せる場面でしょう。「玉の段」の名を持って特別視され、謡どころ、舞どころとして知られています。一振りの剣を持って籠宮のなかに飛び入り、八大龍王らに守られた玉塔から宝珠を取り、乳房の下を掻き切って押し込める。死人を忌避する籠宮のならいにより、周囲には悪龍も近づかない。そして命綱を引く……。子のため、使命のために自らの命を投げ出す一人の海人の気迫が、特別な謡と型を伴い、ドラマチックに表現されていくのです。この場面を見せるために、一曲ができているのではないかという印象すら覚えます。
親子の死別という、悲しい結末の重苦しさは、後場の短くテンポのよい展開で雰囲気を変えられ、最終的には明るく、仏法の功徳につながります。一曲の盛り上がりを大切にして、巧妙に練り上げられています。
片山九郎右衛門師のシテはどこまでも優しげ。子を思う慈愛に満ちていた。とくに後場で手紙を渡すところは、切々とした想いが伝わってくる。こういうリアルな表現もあるんだと、思わせられた。
いわゆる見せ場は、「玉の段」と呼ばれる激しい動きを伴ったその前の箇所。ドラマチックな動作が印象的。これだけ仕舞として単独で舞われたり、舞囃子になったりと度々目にして来たけれど、全体の中で見るとこの場面が後に続く場面、とくに手紙を手渡す場面の穏やかさへ繋がることで、より際立つことがわかる。母の慈愛に満ちた穏やかな場は、やがて最後の早舞へと解消されて行く。龍女となった海士。自らの命を犠牲にすることで、息子の安寧を図ったものの、未だ冥府で苦しんでいる。それが僧侶の唱える法華経によって救われ、喜びの舞を舞う。それが早舞。志度の地に眠る海士の法会が行われることになったという縁起が語られて終わる。
さすが世阿弥、動と静のメリハリが効いている。ここまでドラマチックだと演者を選ばないのかもしれないけれど、こちらもさすが九郎右衛門師、技の秀逸と情表現の卓越を見せてくれた。決して「きばらない」のに、「なに、この充実感!」と思わせてしまう気の充溢。それなのに優しい。この優しさが癒しである。この演目では、他のものより一層それに気づかされた。
房前役(子方)の片山峻佑君もなかなかのもの。ハキハキと言葉が聞き取りやすい。将来が楽しみ。
お囃子方もいつもの方々ながら、調和の妙に感心させられる。さすが京都観世。失望することが一度もない。私がいうのもナンですが。個人的には太鼓の前川光長師の演奏が好きで、拝聴できてうれしかった。
この公演は「国際交流基金」の京都支部が主催。毎年恒例の「能と狂言の会」は、なんと今回で46回目になるとか。観客の2/3 が外国人だった。それも学生が多かった。それ以外の外国人は教員、研究者と思しき人たちだった。午後6時半開演。6時過ぎに到着したら、ほぼ満員。いつも座る中正面の端席が空いていたので、「ラッキー!」と座り込んだら、前が男子学生三人、後ろは女子学生の二人連れ。列を隔てて脇正面のほとんどは外国人学生。英語とドイツ語が飛び交っていた。ぐるりと留学生に囲まれる仕儀となった。西欧演劇とは天と地ほども違う能、「退屈して、ごそごそするのでは?」と心配していたら、これがまったくの杞憂。身を乗り出さんばかりにして観劇していた。配布された詞章の英語訳に書き込んだりもしていて、彼(女)たちがいかに集中し、かつ楽しんでいるかがよくわかった。うれしかった。京都観世会館がこんなにいっぱいになるのを見たのは久しぶり。演者さんたちも、さぞやりがいがあったと思う。
能の前に茂山ファミリーの狂言、『墨塗』があった。さすが千作さん、千五郎さん、そして茂さん。最高の舞台だった!当然ながら観客大喜び。笑いは世界共通言語であると思い知らされた。これについては別稿にする。