進化し続ける羽生結弦選手の演技。アスリートでありながら、アーティスト。そしてフィロソファーでもある。彼以上のフィギュアスケーターはもう出ることはないだろう。彼の前にも、そして後にも。今回のロシア大会での練習中、足首を再び痛めてしまったことに、胸が張り裂ける思いがする。でも、英雄は必ず復活する。「すでにオリンピック二冠なのに、なぜそこまでするか」ってEUROSPORTの解説者が感嘆していたけれど、それは彼が「羽生結弦」だから。「凡庸」の及ばないところにいるから。彼はこの後も「羽生結弦」であり続ける。それが羽生結弦という人。
衣装が美しい。清楚な中に煌めきが。胸元のフリルのつけ方に「花は咲く」の際の白い衣装がかぶる。色調は白ではなく淡いブルーで、V字カットが大胆前胸肌を魅せているのは、美しい王子様がちょっと大人になった感じを表現している?それにしてもこれほど淡いブルーの似合う人はいないだろう。
曲はジョニー・ウィアー選手が2004~2006年にフリーで使用したラウル・ディ・ブラシオ氏作曲の「Otoñal」(秋によせて)。「序破急」の流れに沿ってのパフォーマンス。「序」の冒頭部、両腕を伸ばし手を重ねるようにする仕草が優しい。目に見えない相手に問いかける感じ。そして相手を包み込み癒す感じがする。そういえば、「花は咲く」の終わり近くに同じポーズがあった。後半の「急」に入ると、がぜんテンポがアップ。激しい力とそれをコントロールしようとする力との闘い。激しい力はジャンプ、そして華麗なスピンによって表現されている。コントロールしようとする力は、それらをつなぐステップのスケーティングで示されているように感じる。
「秋によせて」と訳されているように “Otoñal”とは秋のこと。冒頭の曲調には、去り行く秋を惜しむ感傷的な気分と、それをいとおしむ感じも出ているように思う。これまでの季節に積み重ねてきたもの、それらを一旦崩し、それをバネにしてさらに前に進むという意思表示のような気がした。積み重ねて来たもの(積分)を崩す。それは哀しい作業。でも前に進むにはやらなくてはならない。一度立ち停まり、そこで過去をふり返る。過去の華麗な演技の数々、それを可能にしたストイックなまでに自分に課した厳しさ、周りの人たちの支え、そして今ここに応援にきているファンの人たちの愛情、そういうものすべての集積を一旦リリースする、開放する。それはたしかに哀しいし、辛い作業。それが去りゆく秋を惜しむ気分に重ねられているように感じた。
積み重ねたものから自分を解き放つには、並々ならないエネルギーが要請される。積み重ねに要したエネルギー以上のエネルギーが。なぜならそれは積み重ねたものを守ろうとする力との闘いでもあるから。優しい(易しい)作業ではないけれど、必要な作業。どちらも自分自身の中で起きること。
果たして自分はどこに進むのか、道筋は見えているのか、その先には何があるのか。こういう問いを掲げて、「羽生結弦」は進む。問いの答えはこれまでの季節に蓄えたものの中にあるとはかぎらない。季節は過ぎ去って、二度と同じ形で戻っては来ないから。秋の先に冬があるかもしれない。でもそれが明ければ春になる。
あの若さと強さ、まだまだ「春」の最中にいるように私たちは思っているけれど、彼の視線はすでにもっと先にあるように思う。今までとは違った形の「春」をイメージしているはず。それが曲後半の今までとは異なるステップ、そしてスピンに表れていた。華麗ではあったのだけれど、その華麗さが、「あれっ!」って感じさせるものだった。感傷を振り切るアグレッシヴさが、空気を切り裂く感じがした。積み上げてきたものを、バシバシ分解する「過激」を感じた。
この「過激」はフリーの「Origin」にも顕著だった。「Let’s Go Crazy」も過激に舞われたけれど、今回のは確信犯的。その時の力に任せて(ある意味自身に酔って)舞うというところから、もう一歩前に行き、「こういう自分を魅せたい」という意思を感じる。それは己を離れたところからくる憑依的な力に頼るだけではなく、それと対峙する自身(自我)を過激に表現せざるを得なくなった「羽生結弦」であるように思う。思索者(哲学者)の域である。こういうフィギュアスケーターは、歴史上いなかったに違いない。
怪我が心配ではあるけれど、その経験を取り込んで、次なる演技では「春」を垣間見せてくれると信じている。