公式サイトから
以下が公式サイト。リンクしておく。
www.shochiku.co.jp
概要をお借りする。
<概要>
賭けたもの、それは恋人の貞操!男女の心の奥底を描くモーツァルトの名作を魅惑の新演出で。恋人の貞操を信じる青年たちに差し出された危険な賭け!純情な士官たちは老獪な哲学者に勝てるのか?変装して互いの恋人を口説くゲームの結末はいかに?男女の機微をピュアにして精巧な音楽で描き尽くすモーツァルトの名作が、1950年代のリゾート地に置き換えたポップな新演出で登場!ブロードウェイの大スターK・オハラの小間使い役は、シーズン最高の注目キャスト。A・マジェスキー、S・マルフィらフレッシュな顔ぶれも、若者たちの恋の冒険にぴったりだ。
<あらすじ>
青年士官のグリエルモとフェルランドは、フィオルディリージとドラベッラの姉妹と熱愛中。自分の恋人の貞操は絶対だと自慢する2人に、哲学者のドン・アルフォンソは、彼女たちの貞操を試す賭けを提案する。勝利を確信し、賭けに乗る青年たち。ドン・アルフォンソは、姉妹の小間使いデスピーナを味方に引き入れ、周到に計画を練る。彼の計画は、二人の青年を変装させ、互いの恋人を口説きあうというものだった…。
配布されたキャスト一覧をアップしておく。ちょっと見にくいのですが、ご容赦。
荒唐無稽なプロットをどう納得させる?
カーニバルという「仕掛け」
「賭けたもの、それは恋人の貞操!男女の心の奥底を描くモーツァルトの名作」とは、いかにもダサい解説。こういう荒唐無稽なプロットに現代の観客は違和感を感じないのだろうか?違和感ありでしょう。さすがに。そこに言及していたのはNew York TimeのAnthony Tommasiniのオペラ評。以下その部分。さすがです。
How do you get an audience to believe that the two girlfriends — the sisters Fiordiligi and Dorabella — are fooled by their men’s disguises? For the director Phelim McDermott, that is one of the biggest challenges in making sense of “Così.” His colorful, inventive, sometimes riotous, sometimes surreal new production.
恋人の取り替えっこで、相手が騙されるなんてこと、普通に考えてありえない。ボーイフレンドがいかに変装しているとはいえ、それにあっけなく騙されてしまうなんて!もちろん演出のフェリム・マクダーモットが苦労したのもそこ。策はどこまでも「シュールな」場を演出するというもの。その仕掛けの一つが時代、場所を1950 年代のコニーアイランドに設定したこと。実際の見世物大道芸人たちを登場させ、舞台の非現実性を強調したこと。空間を制御できれば、あとは付いてくる。もちろん舞台そのものも非日常ではあるのだけれど、今回はそれをもっと過激に脱日常化してしまった。舞台で起きていることは現実世界とは切れた時空間に属していることを観客に「分からせる」。理屈ではなく、視覚的に、聴覚的に。そこに観客を引きずりこむためにこの仕掛けが採られた。かなりの冒険ではあっただろう。でも一応は成功したと言えるだろう。まさにミハイル・バフチンのいうところのカーニバル空間が出現した。遊園地、モーテル等は全てその空間を彩る仕掛け。カーニバルはまさに価値倒錯、転換を演出する。現実の、日常の価値観はことごとく転覆させられてしまう。こういうtheatrical deviceはやはり欧米のものだなって思う。
価値の転覆
「コンメディア・デッラルテ」の演出
上の「解説」にあるような「恋人の貞操」、やら「男女の心の奥底」なんてものはことごとく転覆させられていて、それこそがこの演出のキモなんですよ。大真面目に議論される価値を「笑いとばす」というところに、劇の真髄があるのでは。このオペラを見ていて、イタリア「コンメディア・デッラルテ」の芝居、カルロ・ゴルドーニの『二人の主人を一度に持つと』 (1745)を思い浮かべてしまった。あれも荒唐無稽さの際立った芝居。「コンメディア・デッラルテ」の演出法が甦ってくる。そういえばモーツアルトは長くイタリアに滞在していた。その頃はイタリアでは「コンメディア・デッラルテ」の全盛期。影響を受けたのでは?ひょっとしたら、通説になっている?もしそうなら、今回のMET演出は「先祖還り」をしたことになる?
大道芸人たち
今回のオペラで最も良かったのは、やはりこの演出。最も優れた役者は実際の大道芸人たち。この人たちに比べたら、実際の歌手はかなり霞んでしまっているように見えた。ちょろっとしか登場しないにもかかわらずである。ここにも「価値の倒錯、転換」は起きていた。こういう演出はかなり冒険ではあるけれど、でもあえてこの手法をとったフェリム・マクダーモット監督はあっぱれ。
アメリカ人歌手とヨーロッパ出身の歌手の違い
歌手で最も光っていたのは哲学者のドン・アルフォンソを演じたクリストファー・モルトマン。2013-2014シーズンにロイヤル・オペラに出演していたという英国人歌手。演技も歌も奥ゆきがあり、素晴らしかった。あと、さすが!と思ったのはデスピーナを演じたミュージカル出身のケリー・オハラ。この二人、デスピーナとドン・アルフォンソの二人が狂言回しをしている。つまり、「コンメディア・デッラルテ」でいえば、コロンビーナ(女の召使い)とアルレッキーノ(道化師)役を担っている?
若い恋人たちはこの二人に比べると、いささか印象が薄かった。グリエルモ役のチェコ出身のバリトン、アダム・プラヘトカは存在感があった。ただ、金髪の男前士官のフェルランドを演じたベン・ブリスは彼に比べるとちょっと線が細い感じ。この人はアメリカ出身。フィオルディリージ役のアマンダ・マジェスキーもアメリカ出身。綺麗なソプラノだけれど、情に乏しいように感じた。ドラベッラ役のセレーナ・マルフィはイタリア人。この人の方がさすがに色気、情の豊かさの表現で優っていた。こう見るとヨーロッパ出身の歌手がアメリカ人歌手とは比較にならないほど力があるのが、見えてしまう。
私は一昨年に英国ロイヤル・オペラのライブビューイングで『コジ・ファン・トゥッテ』を見て、記事にしているのでリンクしておく。ここでは、「劇場を舞台にし、四人の恋人たちは舞台上と舞台裏の境界線が次第にわからなくなっていく」といったよう心理戦を描いた斬新な演出だった。演出面では今回のMET版が良かったのだけれど、歌手陣ではこちらの方に軍杯が挙がる。オペラはヨーロッパに一日の長があるのかもしれない。特にMETが昨今はアメリカ人歌手を多く使うようになっているから。