アルバン・ベルク作のオペラ。今年1月にメトロポリタン歌劇場で上演されたもののアンコール上映。配給元の松竹サイトをリンクしておく。
サイト掲載の「解説」とキャストは以下。
貧困に喘ぎながら内縁の妻と子供を養う兵士にしのびよる人生の魔の手!精緻にして透き通った音楽で社会の歪みをさらけ出し、オペラ史を変えたベルクの大傑作がライブビューイングにやってくる!ドローイングを駆使して人間心理の闇に迫るビジュアル・アート界の巨匠W・ケントリッジの演出はマジカルの一語。20世紀オペラの名手Y・ネゼ=セガンの知的で熱い指揮、円熟の演技派P・マッテイ、役柄が憑依するE・ヴァン・デン・ヒーヴァーら粒選りのキャストで、衝撃の体験を。
指揮 ヤニック・ネゼ=セガン
演出 ウィリアム・ケントリッジ
出演
ヴォツェック ペーター・マッテイ
マリー エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー
鼓手長 クリストファー・ヴェントリス
大尉 ゲルハルド・ジーゲル
医者 クリスチャン・ヴァン・ホーン
非常に暗い内容であることを覚悟して出かけた。
Wikiによると、オペラ版は「ドイツの劇作家ゲオルク・ビューヒナーの未完の戯曲『ヴォイツェック』を下敷きにしていて、劇作品そのものは1821年に実際にあった「貧しい床屋上がりの兵士が、鼓手長と通じた内縁の妻マリーを殺した」事件をもとにしている。3幕から成っている。確かに暗く、陰惨な内容であるけれど、「アレゴリー」として演出しているように感じた。その理由の3点を検証してみる。
1.主人公たちを取り巻くのがまるで影絵のような(肉感性を削ぎ落とした)人物群像であること。つまり現実感が極度に抑えられている。それを増幅するのが「無表情な人形遣い」が操作する幾体もの人形。その人形自体もきちんとした顔がなく、口らしき穴にはガスマスクが装着されている。薄気味が悪いはずなのに、なぜかそれが薄いのは、肉感性のなさ。
2.舞台上に階段状に組まれたセットは終始ほぼそのままで、その上に CGの映像をかぶせて「場面転換」が図られる仕組み。人物はセットを登ったり降りたりして、演技をし、歌唱する。ただ、彼らの上には多様なCG映像がかぶさる。主要人物が演技をしたり歌うときのみライトがあてられるのだけれど、普通のオペラ舞台のような麗々しい「脚光」は浴びせられない。主要な人も含めて人物はこのCG映像中に浮遊している、というか埋没させられている。つまり、一人一人の人間としての人物ではなく、表象として扱われている。
3.冒頭部で主人公が舞台上にセッティングする幻灯機(magic lantern)。スライド映写機の原型に当たるもの。Wikiによると、様々な効果を組み合わせた「ファンタスマゴリア」なるショーに発展したという。主人公のヴォツェックが映写したあとも、再三登場。そこに映し出される映像(画像?)が影絵のよう。人物のカリカチュアやおもちゃの馬の走る様やら、脈略なく映し出される。「ドローイング」と呼ばれる工夫らしい。それらは実際に起きている人間悲劇の悲劇性を捨象し、幻影=幻灯画像の一つに化してしまう効果があった。悲劇が纏う身体性を、限りなく零に近づける工夫に思えた。
こういう演出がどう受け取られるのか、かなりの冒険だっただろう。映画開始前に挿入されていた(恒例になっているMET総裁=ピーター・ゲルブ氏による)演出のウィリアム・ケントリッジ氏と指揮のヤニック・ネゼ=セガン氏へのインタビューが啓発的だった。ケントリッジ氏の、このオペラを革新的作品にするという意気込みが強烈に伝わってきたから。またネゼ=セガン氏がそれを尊重、大胆な冒険も辞さないという共闘意識も感じ取ることができたから。
というわけで、「主人公」は寓話そのもの、あるいはそれを見事に具現化した演出ということになるのかもしれない。ヴォツェック役のペーター・マッテイを始めとして美男・美女はいない(失礼!)。ずっしりと重量感のある体躯、また素晴らしい声にも拘わらず、歌手は目立たない。もちろんこの物語が下層の一兵卒に絡む物語なので、普通のオペラのような美しいが故にその悲劇性が際立つといった演出法はあえて採られていないのだろう。それぞれの歌手は、あくまでも寓話を際立たせるためのコマ。それに徹した歌手たちには、逆に喝采を送りたかったほどである。
そして何よりも感動したのが、終演後の観客の反応。この革命的ともいえるオペラを大喝采で受け入れていた。一階席はほぼ全員がスタンディングオベーション!さすがニューヨーク、優れた観客が優れた舞台を作るのだと、改めて感じ入った。