始まりの「パン!」という音色。それにピタッと合わせて羽生結弦選手の手が天を指して挙がる。差しのばした腕がチャンネルになり、天と彼の身体が繋がった瞬間、羽生結弦=安部晴明という揺るがない「自信=自身」が会場に響き渡った。このとき、「羽生結弦」は「天地を治めた」陰陽師、安倍晴明になった。
全体によりアグレッシブになっていた。それが速くて、確かなスピードとなって現れていたように思う。まるで若き獅子が憑依したような攻撃的なスケーティング。それは4回転を主とした極難度のジャンプを間断なく入れたところに示されていた。
ちろん、こういう風に次々と休みなくジャンプを入れるというのは、他のトップクラスの選手をやっている(やろうとしている)ことだし、羽生結弦選手も前シーズンから意識していること。「あまりにもリスクを冒しすぎ!」って、私のような凡人は危惧してしまう。緊張感の唯中にいる羽生選手当人は、きっとそれ以上の緊張感を感じていたはず?ところが彼はそういう心配、不安を一切寄せ付けなかった。今度の多彩で難しい、しかも8回ものジャンプ。彼はそれをいとも自然体でやってのけた。ねじ伏せ、攻略するというベクトルの屹立。それが怯まないジャンプとなって出ていた。
前へ前へと、次々に攻撃をやめない。そのベクトルはジャンプにだけではなく、スケーティングにもスピンにも刻み込まれ、見ている側を引き込み、前のめりにさせる。前向きのベクトルが生み出す格段の安定感。ささやかなミスをすらも、その流れの中にしっかり収め切ることができていた。おそらく、彼自身の精神的な成熟があって、よりクリアな晴明像を自身の裡に育て上げてきたからだろう。自分こそが晴明その人であるという不可侵の自信。その自信が安定した感じを醸し出していた。それが見ている者の不安をなだめる。
もちろん羽生選手の切り札である優雅さ、美しさは所作一つ一つに表れていて、それをたっぷりと味わうことはできる。でも今回はそれをどちらかというとExhibitionの方に委ねて、「SEIMEI」ではマスキュリン性を強調していた?もちろん男性性の中にも美はあるけれど、優雅という性質とはちょっと異なる。その点で萬斎さんを思い出させた。能の舞いは中性的(アンドロジナス)ではあるけれど、でもどちらかというと男性性の方に寄っている。萬斎さんのゲージの取り方も然り。「男性」を演じているときの安定感は抜群。同じことを羽生結弦さんの今回のスケーティングに感じた。
SPの「ショパンバラード一番」では「性」は曖昧。というか出せない。私はスケートがわからないので、羽生選手にはひたすらアーティストであること、美の権化であることを求めてしまう。気取っていえば、プラトン的美のイデアを見ようとしてしまう。でもね、羽生結弦さんはスケーターなんですよね。アーティストであるのは、誰もが認めるところだろうけど、でもやっぱり生身の人間なんですよ。
だから安部晴明という具体的な「人物」をフリーの演技に選んだところに、他選手にない直感の非凡を見てしまう。陰陽師という、天と地とを媒介するところに立ち位置がある人。百パーセント天に付くでもなく、百パーセント地に属すのでもない人。もっといえば人間であるのか、超人であるのかも定かではない。
この曖昧さを具現化するというのを「思いつき」、「選択」した羽生選手(直感も素晴らしいけど、聡明さも桁外れ)。自身の立ち位置をそこに置いている羽生選手がくっきりと浮かび上がる。「性」をどちらかというと、男性性の方に寄せて、でもそこは依然として漠然としている。それを天地の間に立つ者として舞ってみせる。羽生結弦であると同時に安部晴明という人物でもある、しかもその生身の人物のあり方を、わずか5分あまりの時間の中に「生きてみせた」。
彼が示した安定感は、安倍晴明により迫ること、理解することができたからであろう。また、自分をおいてこの人物をここに提示できる者はいないというたしかな自信からきているのだろう。もう誰も敵わない。これから彼が、あるいは他の競合選手たちがどんな演技をしようと、それは変わらない。技術だけの問題ではないから。知性の、さらにいえば感性の問題でもあるから。
能の「序破急」のことは以前に書いたけれど、まさにその序破急に乗って、氷上にドラマを展開してみせた羽生結弦選手=役者。観客の視線を独占して誇らしげに(ちょっとはにかみながら)お辞儀をするところで、スケート選手に立ち戻った?
試合があった当日にテレビで予約しておいたのを今頃になってみた。試合ごとに彼の人気がより高まり、まるで世界中の人が彼を注視している感じ?それにいささか抵抗感があって、録画を見るのを逡巡していた。もっと早く見れば、「安心」したのにと今頃後悔。でも「羽生結弦」は「羽生結弦」であり続けていることを確認できた。今も、そしてこれからも。