yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

味方玄師シテの能「乱」in 「秋の杉会大会」@京都観世会館10月21日

12時30分過ぎに始まる味方玄さんの「乱」にやっと間に合った。間に合って、本当によかった。「素敵!」のひとこと。「乱」、もちろん『猩々』の「乱」。観世寿夫さんの舞台をDVDで見て以来、すっかり虜になった能作品。実際の舞台ではさる6月、「山本能楽堂90周年特別公演」のとき、山本章弘さんのシテで見ている。その時の記事にも書いたけれど、「乱(みだれ)」とは特殊な演出法。以下に「銕仙会」能楽事典からの解説を。

乱(みだれ)
(『猩々』中)通常ならば〔中之舞〕を舞うところを、〔乱〕を舞う演出です。
なお、この演出になった場合、通常の小書のように演目名の下に小さく書き込まれるのではなく、演目名じたいが《猩々乱》または《乱》と表記され、それ自体が独立した演目のように扱われます。

祝祭的な演目。華やか。言祝ぎ感に満ちている。酒に酔った猩々が愉快に踊り回るさまを描いた舞。お囃子が剽軽な舞をより一層煽り立てる。舞手とお囃子両者が生き生きと、賑やかに交流し、祝祭空間を描出させる。まるで伴侶間の問答を聞いているような、そんな錯覚がするほど、見事に「琴瑟相和して」いる。とくに笛。耳にずっと残るあのメロディ(能管の出す音はメロディって言わないんでしょうか?)、今も響いている。この笛を吹かれたのは杉市和師のお弟子さんでしょう。お上手でした。

そして、なによりもかによりも、味方玄さんの猩々が可愛かった!ただし、酔い乱れて正体不明の猩々っていうより、しっかりと正気をなくさないでいる猩々。自分の乱れを少し離れて見る余裕のある猩々。味方玄さんが演じると、どこか理知的な雰囲気を纏うんですよね。いくら猩々っなんていう猿のバケモノ(?)でも。そういえば観世寿夫さんの猩々にも理知的な雰囲気があったっけ。

「乱」で好きなところは沢山あるけれど、やっぱり爪先立って「テケテケテケテケ」っていう感じで舞台を縦横に移動するところ。おかしい。猩々らしく、まるで猿のように機敏に後ろに跳ぶのもおかしい。それと、首を左右に何回か「イヤイヤ」っていう感じで振るところ。これが実に楽しい。猩々が、そして演者が心から愛おしく感じられる。味方玄さんの猩々も可愛くて愛おしい。でも実力がない演者が舞ったら、ここまで猩々の愛おしさは醸し出せなかったに違いない。

この「乱」に関してはかしこまって見るのは損。舞台と一体化して(かなり無理があるでしょうが)、リズム、波長を合わせて楽しむのが「正しい」見方だと思う。能の十八番の(?)悲劇性はない。その代わり祝祭的な要素が満載。「祝言もの」であるから、当然か。それにしても能に抱いていた「難しいもの」という先入観を打ち砕いてくれる作品。能初心者へのイントロダクションには、この作品が最適ですね。

今日は想定外が続いて、京都行きをやめようかと道中何度も思った。会館に11時半には着くはずが、逆瀬川駅行きのバスが猛烈な渋滞。30分近く遅れた上に、河原町ではタクシーがなかなかつかまらず大幅に遅れた。結局片山九郎右衛門さんの舞囃子、「海士」は見れなかった。悔しい。明日、彼と味方玄さんの『鷹姫』をこの観世会館でみるから、まあいいか。

この「乱」の他の演者が以下。

小鼓  成田達志
大鼓  山本哲也
太鼓  前川光長
笛   澤木政輝

地謡  大江信行 河村晴道 分林道治

文字通りトップの能役者、お囃子奏者たちが社中の笛方を支えるという構図。能の「社中会」がピアノなどの発表会と一線を画すところ。とにかくすごい演者がとっかえひっかえ、ずっと舞台に並ぶなんて、ものすごい贅沢!