こちらの演者と内容は以下。
<配役>
太郎冠者 茂山七五三(しめ)
主 茂山逸平
茶屋 茂山あきら
伯父 網谷正美<内容>
主人は、都の伯父に木六駄と炭六駄と酒樽を贈ることにし太郎冠者に届けさせます。太郎冠者は大雪のなか、十二頭の牛を追って峠の茶屋にたどりつき酒を注文しますが、茶屋が酒を切らしていたので、届けるはずの酒樽に手をつけてしまいます。太郎冠者は茶屋にも酒をすすめ、酒盛りになります。酔った太郎冠者は木六駄を茶屋にやってしまい、炭六駄の牛を追って伯父のもとへいきます。主人からの「木六駄に炭六駄もたせ進じ候」とある手紙を読んだ伯父に、木六駄はどうしたのかと尋ねられ、冠者は木六駄とは自分の名前のことだと言い訳をするのでした。舞台に登場しない十二頭の牛をみえるように演じるのは至難の技であり、降りしきる雪のなかで勝手に動く牛を束ね追っていく奮闘ぶりが見どころです。
逸平さんのお父上の茂山七五三さん、拝見するのは初めて。でもさすが逸平さんのおとうさま。そこにおられるだけで、そこはかとないおかしみが醸し出される。届けなくてはならないお酒を飲んでしまったのに、その言い訳がふるっている。また、堂々として悪びれないところやいかにも鷹揚な感じが人物の大きさを物語っている。こういう人物こそが狂言の人物。能のどちらかというと「暗い」登場人物と比較するとまるで真逆。あちらが陰だとするとこちらは陽。能と能との間に演じられる狂言ではこのコントラストが重要。身体全体でこの「陽」を演出しなくてはならない。またそこに軽やかさを纏わせなくてはならない。観客が息を抜くところですからね。茂山一門の方達はどの方もこの雰囲気を纏っておられる。かといってチャラいというのではない。ずっしりと存在感もある。その存在感がなんとも懐かしく、慕わしい。そこに客が魅了されるのだろう。
逸平さんもここでは本気。当たり前か。おすましして演じられているのが、あのトークの雰囲気とはちょっとずれている。でもやっぱり狂言の人物なんですよね。あきらさんは、そこにおられるだけで、七五三と同様のおかしみが醸し出される。その質はそれぞれに異なっているんですけどね。網谷正美さんは春日大社の若宮祭での奉納狂言「因幡堂」であきらさんの女房役だった方。この日は被り物もないので、完全に地のまま。やっぱり存在感がハンパない。
こういう方々のそれぞれの雰囲気が絡み合って、交響曲的な様相が。狂言の醍醐味が味わえた