梅若玄祥さんの謡に大倉源次郎さんの鼓での一調「松虫」を録音で聴いたのが数ヶ月前。それ以来度々聴いている。玄祥さんの繊細でいて、伸びやかな謡いを源次郎さんの鼓がサポートしつつも「分節化」する。これ絶品!何度聴いても聴くごとに新しい。何よりも気持ちが高揚する。
今回の「玉鬘」は「松虫」と似たような流れではあるものと、ちょっと違っていた。成田達志さんの小鼓はあくまでも力強く、女性的な謡に男性的なストロークを打ち込む感じ。玄祥さんの謡はその打ち込まれた強い力に対抗するのではなく、受け流し、受け流しする感じ。これって、源氏に迫られ途方にくれた玉鬘のとった対応ですよね。能の『玉鬘』ではそういう風にではなく、玉鬘が恋の妄執から解放されていない様を描いている(『玉鬘』を見ていないので、あくまでも銕仙会の解説によるのですが)。玄祥さんの解釈はどちらかというと、ドロドロの妄執に苦しむ玉鬘というよりも、もっと冷静な女と理解しているように感じた。元の『源氏物語』の玉鬘に近い。理知的な女。源氏を避けるために心そまない相手と結婚する選択をしてしまった女。理知的な女が社会の現実に向き合わされた末の決断。でもそういう羽目に陥れた社会が、男が恨めしい。その結果、霊となって彷徨うことになってしまった?
玄祥さんの謡は、まるでそんな玉鬘の心情に寄り添うかのように謡われる。そこに打ち込まれる男性的な小鼓の音。目の前に拓けるのは、男と女の駆け引きのシナリオをなぞらされているような重厚な時間。終わったあと、「松虫」の一調を聴いたときの感興とは違った感興が湧き上がった。