「能を通して羽生結弦さんの『SEIMEI』を分析する」という挑戦をしようとしている。能はほとんど見てきていないし、スケーティングと比較するなんて、無謀にも見えるかもしれない。日本の学界だったら一蹴されるだろう。海外での「学際的(interdisciplinary)」な場でなら問題ないはず。
能もおいおい見て行くつもりにしている。問題は関西には能関連の催しが東京に比べると格段に少ないこと。とはいえ、他の地域よりもいくぶんかはマシかも。非常にお金がかかる上に、観客数も少ない。国庫等の助成がなくては、維持するのが難しいだろう。芸術、芸能は莫大なお金がかかる。
能関係の資料を集めていて、優れた紹介書(研究書)に出会った。原田香織さんが書かれた『現代芸術としての能』(世界思想社、2014年刊)。タイトルにもあるように、「現代芸術」としての能の可能性を探っている。特に興味深かったのは、最終章。ここでは三島由紀夫の、能を「近代」の視点で捉えようとした試み(『近代能楽集』)や、海外での能の受容について包括的に紹介されている。海外での能の受容については、渡邊守章氏の『演劇とは何か』中のクローデルの能への造詣に感銘を受けたところだった。他にはイェイツの「能」、『鷹の井戸』などが有名である。『鷹の井戸』自体は成功作とはいえないかもしれないけど、あの時代に能に目をつけるのはさすがケルト魂を持ったイェイツ。
この『現代芸術としての能』にも他分野とんコラボとして、全方位的に紹介されている。能とバレエとコラボ、ショパン、ムッソルグスキーといったクラッシック音楽とのコラボ、果ては『エヴァ』等のアニメとのコラボ等々が紹介されている。とても面白く、ワクワクさせられた。
その中で、最も感動的だったのが第三章、「役者の動きを見ること——身体のかなたに何が見えるか」の中の以下の部分。
役者が虚空に浮かび上がる。能を見ていると、つぶさにそういう錯覚におそわれる。能は足がすべてだ。宙を歩いたり、宙を舞ったり、その幻影は見所の想像力に委ねられる。誰もがそれを成し得るわけではない。
それは名人という存在が果たす芸の奥行きである。その瞬間に観客は、能役者に誘われて別の次元を垣間見る。役者のもつ、<花>とは、役者という像を通して、はるかかなたに結ぶあこがれの美に、眩惑させるものではないのか。実像とかなたの虚のあわいに漂う美の瞬間、そこへの導きこそが、芸能というもの本質なのである。
<中略>
さてこの奇妙な現象、能のシテが何もない無限のかなたに浮かぶ存在に見えるのはある種の技術による。同時にそれは、<型>を借りて、いや<型>に委ねて能の身体表現がもたらすものであり、技術的な鍛錬だけではなく、それを超えようとする能役者の意志が、奇跡的な瞬間をもたらすということにもなる。当然、世阿弥の狙った<花>もそこにあり、世阿弥が台本のかなたにめざした世界でもある。
「役者」、「シテ」を羽生結弦さんに置き換えれば、まさに羽生結弦さんのスケーティングを表現して余すところがない。