yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

夢枕獏著『陰陽師』の背景

夢枕獏の『陰陽師』、文芸春秋版を読んだ。あと「酔月の巻」、「醍醐の巻」、「鳳凰の巻」も借り出しているので、この一週間で眼を通すつもりにしている。

気づいたのは、『今昔物語集』にでてくる話を下敷きにしている章が多かったこと。ほとんど?この『今昔物語集』、高校の古典のテキストに入っていて、(仕方なく)読まされた記憶くらいしかない。ただ、Wikiに当たってみて、ものすごい量の情報が詰め込まれた作品だと判明。

Wikiでは『今昔物語集』の構成を以下のように解説。

天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成される。各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっている。

いくつかの例外を除いて、それぞれの物語はいずれも「今昔」(「今は昔」=「今となっては昔のことだが、」)という書き出しの句で始まり、「トナム語リ傳へタルトヤ」(「と、なむ語り伝えたるとや」=「〜と、このように語り伝えられているのだという」)という結びの句で終わる。

そのソースについては以下のように解説している。

元となった本は『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などが挙げられる。また、平安時代の最初の仮名の物語といわれる『竹取物語』なども取り込まれている。

本朝世俗部の話には典拠の明らかでない説話も多く含まれる。

JapanKnowledge Personal中、「知識の泉」の項の解説がおもしろい。「陰陽師」の歴史背景も判る。

しかし、現代人と大きく違うのは、超自然的存在への盲信である。科学的にはほとんど解明されたかに思われる現代においても、心霊を信じ因果を信じる人々がいるように、人間というものは自然に対してじつに無力なもので、なにかにすがらなくては生きていけない。この世の中には怪異・奇異なことはいくらでも起る。それに対して平安時代の人々は、その背後に、人智(じんち)ではどうにもはかりしれないものの存在を想像する。まずそれは物の霊である。水の霊(巻二十七第五話)、銅の霊(同第六話)、提(ひさげ)の霊(同第二十八話)であったりする。これらの霊はとくに人に危害を加えることはないが、しだいに人に危害を加えるものが出てきて、いかにも恐ろしい容貌(ようぼう)をもつ具体的な姿となる。それが鬼である。人々の恐怖心の具象化したものである(巻二十七第七〜九・十三〜十九・二十四)。しかし、人々はそういう怪異現象のあとでよく狐(きつね)の姿を見かける。狐は人家の近くにいくらでも見られた動物である。そうするとなんだいまの怪異は狐のしわざか、という解釈が出てくる。そこで狐は人を化かすということになる。狸(たぬき)はこのころまだ出てこないが、野猪(くさいなぎ)というものがその代りをする。
 これらの怪異に対抗するために、人々は陰陽師(おんみようじ)や法師に除災を依頼する。陰陽師と法師との除災の力の差異はよくわからないが、陰陽師のほうが庶民的であり、法師は貴族の間で用いられたと思われる。

夢枕獏の『陰陽師』も、この『今昔物語集』のなかの説話にかなりを負っているよう。原典もある程度知っていた方がよさそう。京都大学の付属図書館が電子図書として原本を公開している。さすが京大!これを読むには、漢籍の知識、教養がいるようで、私には到底太刀打ちできそうもないけど。