圧巻の舞台だった。泉鏡花の耽美的世界に思う存分耽溺することができ、休憩なしの2時間があっという間だった。ひたすら感動。何年か前に梅田芸術劇場でみた「劇団新感線」、『髑髏城の七人』の舞台とは、雲泥の差。
「極上文學」は劇団として固まった集団ではなく、公演ごとにさまざまな役者がチームを組んで舞台を創り上げるというシステムを採っている。いわゆる小劇場系の劇団だと思い込んでいたので、かなり衝撃を受けた。ばらばらな人たちが公演でひとつになる。そんなの、よほどのプロでしか可能ではないと思っていた。公演が終わり、役者が「説明」をしてくれるまで、そういう演劇集団とは分からなかった。ひとりひとりがプロとして普段は単独で活動している人たち。うまいのも道理なり。だから「俄仕立て」にもかかわらず、こんなに完成度の高い舞台を創り上げることが可能だったんだろう。一人二人の例外はあるが、20代から30代にかけての役者さんがほとんど。以下がその配役。ただ、マルチキャスティングで、この昼の部のみのもの。演出が誰なのかを知りたいのだけど、その情報がなかったのが残念。
明 荒牧慶彦
菖蒲 三上俊
悪左衛門 中村龍介
妖 祁答院雄貴
小次郎法師 斉藤洋介
奏で師 橋本啓一
具現師 赤眞秀輝 福島悠介 神田友博 濱仲 太 ポ西・
ティリティリ 菊地英登
公演サイトをリンクしておく。
「朗読劇」と銘打っていたので、ほんとうに「朗読」のみで成り立っていると予想していた。以前に三島由紀夫の『サド侯爵夫人』が朗読のみで「演じられる」のはアメリカのサウスカロライナ大学での「サド学会」のアトラクションで経験済みである。朗読劇は下手に演じられるよりも、役と読み手の間に距離が否応なく出るので、それなりの効果はある。ただこの公演はそういう朗読劇ではなく、どちらかというと先日観た海老蔵の『源氏物語』に近かった。朗読を軸にして、役者が演じて行くスタイルを採っていたという点で。役者全員が台本テキストを手にしながら、それを地の文として読み、かつ台詞も述べる。『源氏物語』よりはるかに複雑な構成になっていたのは、人物関係と話の内容の複雑さがそのまま反映しているからだろう。ただ、地の文体も台詞もまるで平安朝的な文語体。韻をふんでいるところも、まるで源氏、もしくは古今、新古今の歌のような典雅さ。典雅というのはちょっと違うかな。もっと情念が籠った感じ。あの古典文特有のだらだらした調子で、地文と台詞とが混然一体となっている。
泉鏡花の原文がサイトで入手できるので、読んでみた。以前に「外科室」を読んだ程度の私の教養では太刀打ちできない。幻想的な点では「外科室」を凌駕していた。どこまでが現実なのか、幻影なのか、判別できない。その判別できない狭間を主人公明は彷徨っている。人里離れた「妖かしの家」に逗留しているのも、昔々に亡くなった母の手毬歌をなんとかもう一度聞きたい、「再現したい」という想いに急き立てられてだった。どんな歌かを母の友達だったという女たちから聞き出したいとやって来たのだ。その歌がどんなものかは分からないままに、あの「とおりゃんせ」の歌が挿入される。それは嫁入りが冥途への一里塚という意味がこめられた歌でもある。この世とあの世との往来を童謡の形で暗示している怖ろしい歌。
この世あの世の往来が綿々と語られて行く。それ自体が眩暈のしそうなほどの緊密さを纏いながら。初めはいささかの抵抗があっても、読んでゆくうちにあるいはこの劇のように聞かされているうちに、まるで催眠術にかけられたかのように、その世界に引き連れられて行く。この抵抗しがたい引力。まさに鏡花ワールド。上手の脇スクリーンに英訳が示された。ここまで完璧な英詩になっているのに、感動。
演じ手がこういうあいまいな世界をみごとに具現化していたことに感心した。この若さで。いや、この若さだから変な思い入れがなくてよかったのかも。
それと観客!微動だにせず、見入り聞き入っていた。ほとんどが20代、30代の女性たち。泉鏡花をここまで理解しようとし、また理解できる人たちなんですね。こういう集団に身を置くのは初めての経験だった。この「極上文學」プロジェクトは今までに夢野久作の『ドグラ・マグラ』、梶井基次郎の『Kの昇天』、太宰治の『走れメロス』、芥川龍之介の『藪の中』等の「癖のある」作品群を舞台化している。固定ファンも育っているのだろう。知的冒険好きの若い女性たち。