「歌舞伎美人」からの「配役」と「みどころ」は以下。
<配役>
天守夫人富姫 玉三郎
姫川図書之助 海老蔵
舌長姥 門之助
薄 吉弥
亀姫 尾上右近
朱の盤坊 猿弥
山隅九平 市川右近
小田原修理 中車
近江之丞桃六 我當<みどころ>
天上に暮らす美しく妖しい姫が落ちた永遠の恋播磨国姫路にある白鷺城。この城の天守閣の最上階は、人間たちが近づくことのない、美しい異形の者たちが暮らす別世界。この世界の主こそ、美しく気高い富姫です。そこへ富姫を姉と慕う亀姫が訪れ、久しぶりの再会を喜ぶ富姫は、亀姫に土産として白鷺城の城主である武田播磨守自慢の白い鷹を与えます。
その夜、天守閣に播磨守に仕える姫川図書之助が鷹を探しに現れました。富姫は、凛とした図書之助の応対に、命を奪うべきところを無事に帰すこととしますが、図書之助は天守を降りる途中で燈を消してしまい、火を求めて最上階へと戻ってきます。図書之助に恋心を抱き始めていた富姫は、自分に会った証として、城主秘蔵の兜を渡しますが、再び天守を降りた図書之助は、家宝の兜を盗んだ疑いをかけられてしまい…。
泉鏡花の戯曲の中でも屈指の名作とされ、姫路城(白鷺城)の天守に隠れ住むといわれた姫の伝説を題材に、鏡花ならではの幻想的な世界を織り込んだ作品です。美しい異形の世界の者とこの世の人間との夢幻の物語にご期待ください。
先週、シネマ歌舞伎『天守物語』(2009年7月録画)を尼崎MOVIX劇場まで観に出向いたのに、勘太郎(当時)の亀姫が帰るシーンのあと爆睡してしまい、最後の玉三郎と海老蔵が手に手をとっている場面でやっと目が醒めた。不覚も不覚。今回の公演と比較するつもりだったのに、それが中途半端になってしまった。
2009年度版の監督、出演者は以下。
監督: 戌井市郎, 坂東玉三郎 - 出演者: 上村吉弥, 市川海老蔵, 中村勘太郎, 市川猿弥, 市川門之助, 中村獅童, 片岡我當, 坂東玉三
今回主要な役で違っていたのは亀姫。勘太郎に代わって尾上右近だった。右近の方がはるかに良かった。もちろんあの玉三郎の絶品芸と比べるのは酷というものだけど、それでもうら若いお姫さまのカワイさとザンコクさとの何とも奇妙な双面をうまく描出して出色。勘太郎がまるで「木偶の坊」で、感興をそがれたのとは対照的。この人、玉三郎のあとを継ぐようになるかもしれないという予感がした。それを確認できただけでも東京に来た意味があると思わされた。
玉三郎はシネマ歌舞伎のときよりやっぱり歳をとった感は否めなかったけれど、その分、なにか別の趣きが出ていた。不思議なことに今度の方が可憐さ度がずっと高かったような気がする。シネマ歌舞伎のときに爆睡してしまった私がいうと信用できないでしょうけど。三階席のかなり後方からオペラグラスにしがみついての観劇だったこともあるのだろうけれど、エスリアル度がいや増していたような。人間国宝として高く鎮座しているすごい役者、確信犯的な絶対的存在というより、もっと儚げで夢の中にしか生き延びれない妖精のような感じだった。胸に迫った。おそらく、彼の歌舞伎と距離をとって色々な挑戦をしてきたこと、それも異国のものやら異端の芸との交流を深めてきたことが、結実しているからだろう。こういう人は他の歌舞伎俳優には皆無である。外国の、しかも「ヨーロッパの匂い」がするんですよね。異国は異国でもアメリカ的(?)だった故勘三郎とのその点が違いかも。玉三郎は新しい挑戦をしつつも、どこまでも旧さ、古典に拘りがあるように思う。それが「ヨーロッパ的」な所以かもしれない。三島由紀夫と共振する「滅びの美学」のようなものを感じさせる。
この日、朝は国立劇場で『傾城反魂香』を観て、そのあと午後4時半に始まるこの公演まで時間があったので、三越前の教文館に立ち寄った。銀座へくるといつもそうするのだけれど。三階の階段を上がったところに歌舞伎を始めとする芸能関係の書物が並べてあり、そのどれもがこの書店のレベルの高さを窺わせるものである。そこに『芸術新潮』の6月号があった。「玉三郎特集」が組まれていた。買いたかったけど、荷物が重くなるのでamazonで注文した。
この日の『天守物語』で良かったのは、2009年度版の映像でみて感心した門之助の舌長姥を現実の舞台で観れたこと。この人もすごい。『空ヲ刻ム者』でも感心したけど。舌長姥が播磨守の兄弟の首から下の三宝にしたたり落ちた血と顔に残った血をベロリと嘗めとるところ、ホント、寒気がする。と同時におかしい。
それと、上村吉弥の薄も良かった。2009年度版でも舌を巻いた。こういう中籠の役はぴったり。テンペラメントの中庸を出せる役者って、なかなかいないんですよね。役者は「前に出てなんぼ」の世界だから。
朱の盤坊の猿弥は彼が出てきただけで、舞台にホッとした雰囲気が醸し出される。この方の人となりが出ているのだろう。あくまでも自然体。この第二部の最初の演目『悪太郎」の智蓮坊もそういうはまり役だった。
それに比べると中車には首を傾げざるを得ない。まったく自然体ではない。自然体で演じているようにみえなくてはならないのに、キバリすぎ。歌舞伎役者がいかに修錬を積んできているのかが、彼と比べるとあまりにもはっきり判ってしまうのが辛い。
最後に、玉三郎と張り合っていた海老蔵。ぴったりもぴったり。声よし姿よし。図書之助を演じれる役者は彼以外には考えられない。先日の『源氏物語』では大肩すかしだったけど、この役ははまりすぎていて、鳥肌が立った。