人智では及ばないこと、努力では如何ともし難いことに直面したら、最後は神さま、仏さまに「縋る」ことになるのかもしれない。しばしこころの平安を得るために。宗教がなくならないのは、ごく自然なことなんだろう。
先日羽生結弦選手の快癒を願って、神戸市東灘区の弓弦羽神社に参拝したのだけど、最新のtwitterにトロントで練習しているとの情報があり、ほっとした。ファンのみんなの熱い思いが通じたのだろうと、うれしかった。でもどうか、どうか無理をしないで欲しい。
ちょうどその頃、私自身ちょっと気になることがあり、神戸中央市民病院に行ったところだった。二月に入ってまもなくで、翌週にMRIと血液検査を受けさせられた。大体が心配性(チキン)なので、「ひょっとしたら...」と最悪を考えてしまう。毎週、診察日が近くなると胃がおかしくなる。今まで何年も医者に「これなら手術しなくてもいい」と言われてきたから、大丈夫だと自ら慰めていたところ、今回は担当医から「手術をします」とのご託宣。「どうしてもですか」と大分食い下がったけど、彼女は動じず。3月3日の雛祭りの日に手術と決まった。かなりショックだった。
こういうときは祖父の墓参り(笑)をすることにしている。2月24日に京都の西大谷に出かけた。これでだめなら、祖父が「こちらに来い」と言っているのだと、あきらめもつく。これで大分落ち着いた。日帰り手術ということだったのだけど、前日にいろいろ処置があり、結局2日がかり。場所が場所だけにかなりdepressiveだった。
迎えて翌日の手術日。生まれて初めての麻酔、生まれて初めての手術。恐怖におののいていたのだが、あっさり30分程で終わった。寝てしまうと聞いていたのに、意識ははっきりとあり、執刀医(担当医とは違い男性)と看護婦さんの話し声が聞こえて嫌だった。バックにAKBかなんかの歌がかかっていて、これには笑った。担当医もそうだけど、おそらく40歳にはなっていないであろう若い優秀なお医者さん。
そのあと回復室なるところで3時間近く寝かされて(ぜんぜん眠れなかったけれど)、やっと帰宅を許された。回復室では、周りの深刻な手術を受けた患者さんたちの様子がビンビン伝わって来て、否が応でも死について考えさせられた。命が限りあることは頭で分かっていても、実感で分かっているかというと怪しい。でも、今回の手術で実感に近く分かった。明日死ぬかもしれないわけで、それならためらっていたこともどんどんやって行くべき。そう決意したら、なにかうれしいような、せわしないような、そんな気持ちになった。
手術後、やっと解放されたと更衣室に走っていったら、看護婦さんがあきれ顔でみていた。翌日の4日からお芝居を観に行っているほどなので体調は問題なし。6日には、京都南座での11時からの歌舞伎公演の前に、西大谷に寄って手術が一応無事に終わったとの報告とお礼参りをしてきた。このあと一緒に歌舞伎を観た友人に手術の話をしたところ、「そんなの、私なんかいっぱい経験してるわよ」と言われてしまった。