yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『空ヲ刻ム者』観劇追記@大阪松竹座4月14日昼の部

以下、松竹サイトに掲載の主人公二人のスティール。



第三幕のみで、この芝居は成立したのでは。この幕のみが「歌舞伎」だったから。「スーパー歌舞伎」というからには、アンチテーゼを提出するにせよ歌舞伎というベースがあって成立するものなのだから、やっぱりそこは押さえておいて欲しかった。脚本を書いた前川知大という方、歌舞伎をあまりみたことがなかったのでは。まあ、だから逆に「冒険」もできたはずだけど、それは空回りに近かったような気がする。

第一幕の「くさいせりふ」、何回聞いても白けてしまう。もっとも鼻白んだのは、十和と一馬のやりとり。「なに、この青臭さ!」と思ってしまった。

第二幕がいくぶんこのドッチラケ度はましだったが、それは澤瀉屋の主要役者が多く出たからだろう。猿弥、笑也、春猿、門之助、猿四郎、それに貴族を演じた、澤路、笑羽、笑子、猿琉、喜美介、女官の笑野、喜昇、猿紫といった先代からの「スーパー歌舞伎」の常連芸達者が揃っていた。壮観だった。そして面白かった。「コミックリリーフ」になっていたのはこの場のみだった。猿弥の手堅い演技にはいつも感心するし、笑也の美貌はいささかなりとも衰えていない。派手な悪女役の春猿は新派でみた折より、役柄に似合わずずっと「控えめ」な印象だった。あとの役者さんたちもそれぞれのニンにあった役だった。『新・水滸伝』を阿倍野の新歌舞伎座で観て以来、喜昇のファンになったのだけど、大向こうから何度も「喜昇!」のかけ声がかかっていた。

第三幕が良かったのは、もちろんいちばん歌舞伎らしかったのもあるけど、なんといっても仏師、九龍と不動明王を演じた右近が全体を締めてくれたから。声がなんともいえずよかったし、歌舞伎の息づかい、リズムが忠実に再現されていた。第一幕、第二幕ともに、猿之助は極力台詞を現代劇調で言っていたが、この幕でようやく歌舞伎の台詞になった。猿之助さん、やっぱりあなたには歌舞伎口調が似合います。このあたり、今後の課題だろう。

今日は三階席だったので、舞台全体を俯瞰できた。先日の一階席の観劇にはなかった「発見」がいくつかあった。良かったものを挙げると、第二幕、今際の際の伊吹を介抱する十和と母菖蒲(笑三郎)の亡霊の会話の場。すっぽん、せりが上手く使われていた。この世とあの世の判然としない境目を示して秀逸。笑三郎は第一幕でも光っていたが、「優しい母」から恐ろしい妖怪へと変貌するところの演技、すごみがあった。先日の一階席はすっぽんのすぐ際だったので、彼がすっぽんからせり上がって来たとき、ほんの1メートル位の距離でみたのだが、ほんとうにお綺麗だった。鼻がとても高く、気品溢れていて、ステキだった。新派でも何回も女形の彼をみてきたけれど、この役がいちばんはまり役かも。

もう一つ舞台装置とその場の内容との一体感があったのが、第三幕の不動明王が登場する場である。荒々しい明王とそのバック、見事だった。右近の明王も慈悲のある明王を変な臭みなく堂々と演じていて、彼の人柄そのままだった。


第二幕の盗賊達のアジトのセットには「工夫」がこらされていたが、あまりしっくりとは来ていなかった気がする。以前にみたパリ・オペラ座バレエの『天井桟敷』のセットを思わせた。つまり、パレエ、オペラによくあるセット。かなり違和感があった。前川さんのアイデアなんだろうか。アジトの場自体もうまく機能したとはいえないのでは。なにか異質な西洋文化が無理に挿入された感があった。ダンスもいけなかった。あまりにもあざとい。『研辰の討たれ』のダンスが、起こりえない場で自然発生的に起きた(と思わせる)のとは違って、座の余興に踊りがあるのは自然(当然)だろうとい設定が、あまりにも「自然すぎる」のが不自然。

第三幕の『楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」をおもわせる朱雀門のセットも良かった。ナズナ役の龍美麗、カガリ役の喜猿(?)が戸板倒しをみせてくれたのもいかにも歌舞伎で、良かった。戸板から朱雀門上に飛び乗った猿之助の動きもスムーズだった。

龍美麗といえば、彼が第一幕の十和と役人達の立ち回り、第二幕の盗賊達と看取の立ち回り、そしてこの第三幕の立ち回りの殺陣のほとんどを付けたのだと思う。最後の場以外の場でのみせどころがあまりなかったのが残念。