yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

四代目市川猿之助主演『ヤマトタケル』シネマ歌舞伎@神戸松竹 10月1日

まずチラシにある宣伝用の写真。

休憩が間に三回、それぞれ10分づつ入ったが、約3時間半にも及ぶ長丁場だった。それでも『古事記』の倭建命物語の一部省略である。このナガーイ芝居をまったく退屈させることなく、エンターテインメントの原点たる娯楽性を最大限盛り込んで魅せたのは、さすが「スーパー歌舞伎」の名にし負うものだった。

以前に『市川猿之助傾き一代』(光森忠勝著)を読んでいたので、猿之助が梅原猛の古典解釈に心酔し、彼に『ヤマトタケル』の原作を依頼した経緯、また、それを彼が劇脚本にするのに腐心したさまをよく知っていた。だから、去年の新橋演舞場での公演のチケットが手に入らなかった折には、がっかりした。というわけで、このシネマ歌舞伎には大いに期待して出かけた。でも先日、大阪新歌舞伎座での市川右近主演、澤瀉屋一門の『新・水滸伝』にちょっと「えっ、私が思っていたとはちょっと違う」という感があったので、不安はあった。たしかにその不安は杞憂ではあったけど、不満がないといえば嘘になる。

梅原猛には私自身も一時入れあげたことがあり、『地獄の思想』、聖徳太子と法隆寺にまつわる「謎」を解明しようとした『隠された十字架』、柿本人麻呂の死の深層を掘り起こした『水底の歌』などは読んで感銘を受けた。私の国文専攻の友人などは彼を認めていなかったけど。二代目猿之助(現猿翁)が梅原に惚れ込んだのもよく理解できる。二人ともその所属する界の異端児だから。古典に新しい解釈を施すという冒険にも共通点がある。でも、やはりこの『古事記』中でももっとも神話らしい倭建命物語をこのように「解釈」されてしまうと、私でなくとも三島由紀夫ならさぞ嘆きかつ怒っただろうと、思ってしまう。ただ、大衆にも理解可能で、かつ楽しい芝居にするにはこういう形しか仕方なかったのかもしれない。

もとの三代目猿之助の脚本からそうなのかもしれないが、「人の心に宝があることを忘れた倭人=現代人」や、「奢り高ぶり、先住民と共生せず彼らの魂鎮めもしない現代人」への警告を発するところとかは、かなり説教調で、「なに、このポピュリズム発想!」と、感興がそがれたのも事実である。そういうのは、劇中人物が語らずとも、その演技が優れていれば自ずと観客には伝わるものだから。『新・水滸伝』でもおなじ感慨をもったことを思いだした。芝居は講演(レクチャー)ではない。聡明な現猿之助がそれを分からないはずはないけど、先代からの「レガシー」でどうしても少しは入れない訳にはいかないのかもしれない。実際、『新・水滸伝』(横内謙介演出)のものに比べると、その大衆迎合はかなり減らされていた。次の公演では、こういう類いの説教はできるだけ外して欲しいと願う。そんなの入れなくても、十分にメッセージは伝わってくるから。

そう強く思うのも、この「倭建命物語」は私が『古事記』中もっとも好きな物語だから。三島由紀夫の『日本文学小史』ではとっぱじめが「倭建命」である。三島は、倭建命の父の景行天皇は「人間天皇」であるのに対し、この倭建命は「神」天皇だという。倭建命は人智を超えた、リーズニングの適用できない「サブライム」なのだ。これを読んだ時、こころが震えた。人は英雄にはなれない。サブライムの域に達して初めて英雄になる。だからこそ、景行天皇は我が子小碓命を怖れたのだ。

梅原原作では小碓命の兄殺しも、民主主義的リーズニングの許に説明される。でも『古事記』ではそういう説明はまったくない。以下のようになっている。

ある日,景行天皇の宮(日代宮:ひしろのみや−奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召しつれてくるように言われる。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は,二人があまりに美しい娘たちだったので自分の下に置くことと決め,父の前には別の娘を差し出してごまかすことにした。しかし,このことが父に知られることとなり,大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまう。そのため朝夕の食事にも同席せず,大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまった。そこで,父は弟の小碓命(ヤマトタケル)に食事の席に出るように諭してくるように命じた。小碓命は早々に兄に会い,教え諭した。しかし,それでも大碓命が顔を出さないので,父が小碓命にどのように諭したのかをたずねたところ,「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき,手足をもぎ取り,体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えた。

兄を殺した小碓命はここで不気味な存在、人間を超えた何かに化した。だから父は怖れた。人を超えてしまった小碓命。父に疎まれながら、怖れられながらも、なぜそうなのかが理解できず嘆く小碓命。そこに父と子にまつわる悲劇がある。普通の人間である父が理解できない神的な息子との間の埋められなギャップゆえの悲劇がある。そういう内容にすれば、大抵の観客には受けないかもしれない。でもあまりにも合理的な内容にされると、タカラズカなどと変らなくなってしまう。