yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

七之助演じる初花の自己犠牲が悲しい『箱根霊験誓仇討』in 「壽 初春大歌舞伎」@歌舞伎座 1月11日昼の部

司馬芝叟作、石川耕士監修。「箱根山中施行の場」と「白滝の場」。

「歌舞伎美人」からお借りした配役とみどころは以下。

<配役>
飯沼勝五郎     勘九郎
滝口上野/奴筆助  愛之助 
女房初花      七之助
刎川久馬      吉之丞
母早蕨       秀太郎


<みどころ>
夫の仇討を見事成就させた妻の思い
 兄の仇である北条方の滝口上野(たきぐちこうずけ)の手がかりを求める飯沼勝五郎は、病の身ながら妻の初花とともに箱根山中の阿弥陀寺へとやってきます。そこに、北条家と上野の様子を探るために非人に身をやつした家来の筆助が現れ、勝五郎に北条家の動向を伝えます。そこへ初花の母早蕨を人質に取った上野が姿を現し、夫と母の命を握られ逆らうことができない初花を、勝ち誇るように連れ去っていきます。ところが、弔いの念仏を唱える夫と母の前に初花が突然戻り…。
 新開場後の歌舞伎座では初めての上演となる仇討ち狂言をご堪能いただきます。

夫、勝五郎を乗せたいざり車を引く七之助の初花。その儚げな美しさが印象的だった。彼が演じてきた女方の最高峰だと思う。清らかさが匂い立っていた。それが滝口上野に蹂躙されるサマは、嗜虐シーンを覗き見しているような感触を持たされる。大仰に泣いたりわめいたりは一切ない。ごくさらっと演じられるのだけど、それでも、それだからこそ、より一層対比が際立つ。こんな演技ができる役者になったんだ。七之助は。まさに彼のニン。今のところ、これほど彼にぴったりの役はないだろう。無理して「演じている」のではなく、ごく自然に内心の悲痛が滲み出る。ただ、悲しげな表情をするのではなく、むしろ淡々を装っている。ところが、再登場した折にはなんとも悲しそう。依然として大仰な演技を排しているのだけれども。

初花が「再登場」した時、「えっ?」って一瞬訝った。餌食にならず、助かったの?いえいえ、これは彼女の幽霊。演出が優れていたのは、普通の歌舞伎演出のように「いかにも幽霊」という風情で登場させなかったところ。まるで生きた初花がそこにいるかのようにしていた。夫を思うが故に冥界から舞い戻ってきて、彼に寄り添う。この優しさ。思いの深さ。

それと比べると夫の勝五郎がいかにも「能天気」に見える。これは意図的な演出ではないのかもしれないけど。作者が女と男の情の違いを描こうとしていたとは思えないので、当時の男女の情の、価値観の相違がリアルに描かれていることなのだろうか。夫のために人身御供になることすら辞さない妻。「貞女の鑑」なんてのが。そう考えながら見ると、幽霊初花の儚げなサマがぐっと迫ってくる。

勘九郎の勝五郎もニンに合っていた。さすが兄弟と感じたのが、夫と妻との語らずとも通じ合う阿吽の呼吸が効いていたところ。まるで真の夫婦のよう。この二人、世代的には「中堅」になりつつあるはずなのに、どこかまだ初々しさを保っているのは、相棒に兄が、弟がしっかりと組み込まれているからなんだろうか。それとも、偉大だった父、勘三郎の影が覆っているからなんだろうか。ちょっと複雑な気持ちになった。

猿之助の代役もやらされて二役で奮闘した愛之助。きちんと演じ分けていたので感心。でも上方役者なんですね、極悪の滝口上野を演じても、なんか可笑しい。本人は大真面目に演じているのに、身体から可笑しさが放射されている。だからあまり怖くない。上方風サービス精神が出てしまうということ?歌舞伎座なんていう「江戸の舞台」なのに。