今月の公演は昼夜ともに、若手役者の明確な確固たる「意志」の上成立したのだと感じる。
昼は黙阿弥の『骨寄せの岩藤』、そして夜は『四谷怪談』と、いずれも通し狂言である。それも難しい演目二つである。まずその意欲、チャレンジ精神に敬意を表したい。そしてこういう挑戦をずっとつづけていって欲しい。そうすれば歌舞伎が最も栄えた時代の精神が今この場に寄り付いて、歌舞伎に新しいディメンションが拓けるに違いない。以下松竹「歌舞伎美人」サイトからの引用である。
<構成>
序 幕 浅草観音額堂の場
宅悦地獄宿の場
浅草暗道地蔵の場
浅草観音裏田圃の場
二幕目 雑司ヶ谷四谷町伊右衛門浪宅の場
伊藤喜兵衛内の場
元の伊右衛門浪宅の場
三幕目 本所砂村隠亡堀の場
大 詰 滝野川蛍狩の場
本所蛇山庵室の場
<配役>
お岩/佐藤与茂七/小仏小平:菊之助
直助権兵衛:松緑
奥田庄三郎:亀三郎
お袖:梅枝
お梅:右近
四谷左門:錦吾
按摩宅悦:市蔵
後家お弓:萬次郎
伊藤喜兵衛:團蔵
民谷伊右衛門:染五郎松竹の「歌舞伎美人」サイトからの引用
通し狂言 東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)
◆運命に翻弄される男女と亡霊の怨念を描く怪談物 忠臣蔵の世界を背景に、時代に翻弄される市井の人々の暮らし、陰惨な殺人と死霊の恨みを描いた怪談物の傑作です。典型的な色悪の役柄である民谷伊右衛門に陥れられた妻のお岩は「髪梳き(かみすき)」の場面で怒りを表します。死霊の怨念を描く場面での「戸板返し」「提灯抜け」などの仕掛けもみどころです。また、幻想的な「蛍狩」の場面は歌舞伎座では実に三十年ぶりの上演となります。鶴屋南北の代表作をご堪能ください。
<あらすじ>
塩冶浪人の伊右衛門は、妻のお岩を連れ戻された恨みから舅の四谷左門を殺害します。一方、中間の直助はお岩の妹お袖に横恋慕し許嫁の佐藤与茂七を殺します。二人は姉妹を騙して、敵討ちを約束します。(序幕)やがて伊右衛門の子を産んだお岩は産後の病に苦しみ、隣家の伊藤喜兵衛から届けられた薬を飲みますが、顔を押さえて苦しみだします。実は、お岩の顔を毒薬で醜くして伊右衛門と離縁させ、孫娘のお梅と添わせる企みでした。真実を知ったお岩は伊藤家に向かう身支度をするうちに絶命してしまいます。そこで伊右衛門は、情死に見せかけるため、お岩の死骸と小者の小平の亡骸を同じ戸板に打ち付けます。やがて、お梅が嫁いできますが、お岩の怨念に惑わされ、伊右衛門は喜兵衛とお梅を殺してしまいます。(二幕目)
隠亡堀に戸板が流れつき、お岩と小平の亡霊が伊右衛門を悩ませます。そこに、生きていた与茂七と直助が現れます。(三幕目)伊右衛門は七夕の夜に女との逢瀬を楽しむ夢を見ますが、その女はお岩の亡霊でした。夢から覚めた伊右衛門は尚もお岩の怨霊に悩まされ、改めて執念深い怨みを思い知らされます。そこへ与茂七が駆けつけ…。(大詰)
南北作品らしく、人物と話の筋がきわめて複雑。あらかじめ「予習」しておかないと、舞台の流れについて行くのは難しい。こういう凝り方、まさに南北。伏線があらゆるところに張り巡らされていて、それらが互いにリンクしあいながら、大筋を創りだしてゆくところ、まるでハイパーリンクである。たが、あるテーマに収斂してゆくとみせかけて、実はそれが新たなるカオスをうみだしてしまうところは、リゾーム的というべきか。黙阿弥も過剰を演出したけれど、それはどこか理によって解決できるものとして示されていたように思う。ところが南北となると、解決が一体あるのかどうかが分からない。永遠に片付かない過剰さの中に観る者を巻き込んで行く。でもその過剰さがとてつもなく魅力であり、ハマるとなかなかぬけだせない麻薬のようなものである。
南北作品は過酷である。演じ手の力(理を理解する頭脳とその理を具現化する身体との)を白日のもとに曝してしまう。イイカゲンな気持ちで取り組むと火傷をしてしまうに違いない。それはまた、観客にもいえることである。イイカゲンな気持ちで観ると、消化不良のまま劇場を後にしなくてはならない。でも、だからこそ「やりがいがある」のだ。いかようにも解釈できるし、いかようにも演出できる。私たち観客もそれぞれに見合った形で「観賞」できるわけである。
舞台に乗せる場合は、通しではなく二幕目からが多い。私が1993年に京都南座でみた折もたしかそうだった。このときのお岩は三世鴈治郎(現坂田藤十郎)、伊右衛門は團十郎だった。鴈治郎は今公演の菊之助同様与茂七と小平も演じた。 でももう一つ印象に残っていない。まあ、例の髪梳きの場面は覚えてはいるのだが、それにしてもあまりピンとこなかった。
本公演の方がその意味でも、役者の心意気がはっきりと伝わってきていたように思う。菊之助は極力「ケレン味」を排して、すっきりとした形でお岩(それに与茂七と小平を)を提示してみせた。ちょっとすっきりしすぎる嫌いがあったが。染五郎の伊右衛門も色悪の妙を堪能させてくれた。おそらく彼の中で何かが変りつつあるのだろう。それがある種の「貫禄」、ふてぶてしさとなって実現しているのが、頼もしい。直助の松緑も岩藤よりずっと当たり役だった。きっとニンが彼にあっていたに違いない。『暗闇の丑松』がそうだったように、どこか弱いところのある役柄を演じると、彼は本領を発揮する。
私がもっとも印象に残ったのは按摩宅悦を演じた市蔵である。彼は若手の公演には必ずなくてはならない役でもって、彼らをしっかりとサポートしている。出しゃばることなく、それでいてその存在感を明確に示すという難しいことをやってのける。こういう優れたバイプレーヤーをもっているのが、今の歌舞伎の最大の強みだと思う。
ひとつ気になったのが、「だんまり」場面の照明である。以前にも感じたのだが、これは暗闇の中での演技という「お約束」なのだから、もう少し明度を落としたものにすべきではないか。あまりにも煌々と明るくて、鼻白んでしまった。