yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「亀治郎の会さよなら公演」@国立劇場8月18日

朝早い飛行機にしたのもこの公演の当日券を取ろうと考えたから。とにかく前売りチケットが取れなくて困った。ホテルに荷物をおいて劇場に行ったらラッキーなことに当日券が取れた。暑い中12時30分の開場まで時間をつぶし入場。ものすごい人、人。あの広い大劇場が満席。亀治郎の人気ぶりが窺える.新猿之助としてスタートをきった彼にとってこの会はこれが最後。

三部構成だったが、最後の「連獅子」は新橋演舞場の歌舞伎夜公演に行くため、観ることができなかった。またの機会があるに違いない。とはいうものの、考えてみれば連日これだけの観客を動員するとはすごい。海老蔵、愛之助、福助の新橋演舞場公演の向こうを張っての今回の公演である。歌舞伎に新しい胎動が起きているのが東京にいると実感できるのだと、改めて感じた。成田屋、成駒屋もその新しいトレンドに巻き込まれている。亀治郎の存在がいわば「触媒」となって大きな役割を果たしてきたのは間違いないだろう。

この三部構成の演目はすべて亀治郎仕様の澤瀉屋もの。その意欲が並々でないのが分かる。まずは「栴檀女道行」から。近松の「国性爺合戦」の主人公和藤内の妻小睦と日本に流れ着いた大明国の栴檀皇女との道行舞踊である。二人は大明国に渡った和藤内を追って行くところなのだ。先代猿之助が作った舞踊劇で澤瀉屋のものということだったが、出だしの新猿之助の踊り、振りはどこか上方風。富十郎を思わせた。それでプログラムを改めたところ、振り付けは藤間勘十郎だが作曲は源大夫と清治さんということで、納得。清治さんは「杉本文楽」でも作曲を担っていた。今月の文楽公演、ご病気で休演されていたのが心配ではある。この曲は初演時のものかどうかは不明だが、おっとりとした中にもキリッとしたところが挿入されていて、かつ全体としてははんなりと華やぎのある曲風だった。それが小睦のニンをよく表していた。亀治郎の小睦に比べると栴檀皇女の中村米吉の印象は薄い。まあ小睦の踊りを際立たせるにはその方が良かったのかも。小睦とやり合うちょっとコミカルな侍大将安大人の亀鶴はそれに比べると生き生きとしていた。この人、なかなかの芸達者で、まだ若いのでこれからが楽しみである。亀治郎の若手役者の「抜擢」には以前から感服していたが、改めて大した人だと思う。

そのご当人、入りの場面で飛び六法の構え。去年観た時蔵の「女暫」再現と思いきや、そこで「思い入れ」。恥ずかしそうなふりをしてみせ、髪を直して退場。その様が可愛く、なんともいえない色気が男勝りの中にほのみえて、亀治郎の面目躍如たるところがあった。

二つ目の「檜垣」はこれまた趣向を全く変えての能仕様。能「檜垣」と小町と黒主の絡みを描く「関寺小町」を組み合わせたものだった。「檜垣」ははるか以前に一度見たきり。「関寺小町」はもともとあまり板に乗らない難しい演目だとかで、こちらもわりと最近三代目鴈治郎(現藤十郎)で一度見ただけ。比較のしようもないのだが、私としてはどうも三島の近代能楽集の「卒塔婆小町」がチラチラして仕方なかった。文学好きの亀治郎さんのことだからきっと意識していたのだと思う。

亀治郎さんには三島の『近代能楽集』をぜひやっていただきたい。さしあたっては「卒塔婆小町」の小町。そして「弱法師」の俊徳。「綾の鼓」の岩吉。「班女」の実子。花子の人選が困るだろうけど、これも男性役者、たとえば藤原竜也で。