yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『一心太助』in 芸術祭十月花形歌舞伎@新橋演舞場10月17日昼の部

伊丹へ帰る羽田発の飛行機の便を午後5時にしていたのでさいご20分を見損ねている。ANAの宿泊と航空便とがセットになったチケットだったので、便を遅らせることができなかった。終演が3時45分なんて「遅い」ということを推測できず、大失敗をしてしまった。このさいごが(将軍家光と太助二役を演じた)中村獅童さん早替わりの見どころであっただろうから、残念である。

『一心太助』は中村(萬屋)錦之助さんの映画での当たり役だったので、獅童さんにとってはいわば「一家相伝」の演目といっていいのかもしれない。今回の演目の正式タイトルは『江戸ッ子繁昌記:御存知一心太助』である。獅童さん、なかなかのユーモアのセンスがおありで、劇中アドリブで「獅童、ああ、あの女のケツばかり追いかけているやつ」なんてことを、ごくあたりまえのごとく(?)おっしゃって笑いをとっておられた。映画『一心太助』はみたことがないが、叔父さまの錦之助さんも同様のセンスをおもちだったのだろうか。ちょっとタイプが違うようにも思えるけど。とにかく、この太助は獅童さんにははまり役だった。関西出身?と思わせるくらい、ぼけとつっこみ(両方ができる)のセンス抜群の方である。

ストーリーはごく他愛ないものだったけど、それを新しい「歌舞伎」として見せるというのは案外大変な作業だったと推察できる。完全な現代劇の形をとることには無理があり、かといって歌舞伎的「型」の中に押し込めてしまうと、もともとの映画版「一心太助』にあったエネルギーの大半が十分には舞台にみなぎってこない。昔ながらの歌舞伎にしてしまうと「江戸っ子」の、つまり当時の生き生きとした庶民のパワーが十分には現出できない。不完全燃焼の可能性を孕みつつ、その微妙な綱渡り的バランスの上に成立した舞台だった。観客の反応をみる限り、その「綱渡り」は成功したといえるだろう。

「成功」には獅童さんの資質が寄与していると思う。先日の『若き日の信長』での海老蔵さんの舞台にいささかがっかりしていたので、歌舞伎の役者が現代劇調の芝居をするのにはかなり懐疑的になっていた。「新歌舞伎」というジャンル特有の難しさではあるのだろうけど。歌舞伎の(良い意味での)猥雑さとパワーに欠け、それかといって現代劇につきものの心理描写に長けているわけでもない新歌舞伎は、演者に「台本に頼ることを一旦停止し、新しい試みを試してみる」というくらいの覚悟が要ると思う。そうでなければ中途半端なつまらない舞台になるのは必定である。

『一心太助』はその点、かなりきちんとその有体を計算した舞台だった。さすが福田善之さんである。福田さんはこの作品の作者でもあり、また演出もされているから。緩急をつけた「綱渡り」の呼吸を心得ておられたのだろう。

楽しいお芝居で、獅童さんはそれを目一杯活用して演じていた。彼の歌舞伎外での活動が資していたのは間違いない。歌舞伎役者プロパーだったらここまではじけて演じるのには抵抗があっただろうから。それと彼のキャラも関係しているかもしれない。枠の中に納まるのを良しとしたいところがあるに違いない。だからいろいろな新しいジャンルに挑戦しているのだろう。紆余曲折があるだろうし、雑音も入るだろうけど、そういう挑戦はかならずや実を結ぶに違いないと思う。彼の11月11日の岸和田浪切ホールでの『一本刀土俵入り』を1週間前に予約したところだった。

そして、亀治郎さん!太助女房のお仲がえもいわれずかわいかった!色気のない役者がいくらきばって女形を演じても魅力に欠けるんですよね。亀治郎さんのお仲はそういう役者の対極にある、色気もありかわいげもある女形だった。『小栗判官』での判官にやみくもに懸想する独占欲のつよいお駒を演じたときにも、「悪い女」でありながらその一途さがかわいかった。亀治郎さんが演じるとほんとうに説得力があった。私が今までにみた女形にはないかわいさだった。この方も枠の中に納まるのを潔しとしない方だとお見受けした。歌舞伎が旧態依然とした枠の中に留まっているなら、いずれはダイナソーに成り果ててしまうだろう。そのあたりをしっかりと認識した上で新しい試みにも積極的なのに違いない。

歌舞伎に頼もしい「花形」がそろったものだと感無量である。