yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『Ghost in the Shell』中の「謡」

押井守監督の『Ghost in the Shell』(1995)中のサウンドトラック(http://www.amazon.co.jp/攻殻機動隊-GHOST-SHELL-サントラ/dp/B0000076D8)は強烈なインパクトがある。映画自体も電脳・サイバー近未来と生々しい土着性との奇妙な融合でエポックメイキングだったけど、それをさらに増幅させたのがサウンドだった。
『Ghost in the Shell』中の「謡」を以前にある劇団がお芝居、『三浦屋孫次郎』のラストでとても効果的に使っていた。どなたのアイデアだったのかが気になったので、いつもはパスする送り出しで座長さんのお一人に伺ったらご存知ではなかったようで、おそらく他の方の構成だったのだろう。ちょっと拍子抜けしてしまったけど、それは期待過剰というものかもしれない。

この「謡」は押井の次作品、『Innocence』でも音楽監督をつとめた音楽監督川井憲次の傑作である。川井憲次の両作品のサウンドトラックはは幾重にも重なる民謡歌手の歌声と和太鼓の音の混合によって独特音世界を紡ぎ出している(amazon.co.jp)。民謡歌手の声、和太鼓といった和の音を「電脳」処理して紡ぎだされる音の奥行きは、魂をゆさぶる。私という個体の背景にある過去の総体と響き合い、共振するから。

太古の昔から個々の個体に連綿と引き継がれてきた残滓のようなもの、その残滓は澄み切っていると同時にドロドロともしていて、それらが絡み合った層をなしている。人間ならではの暴力性、退廃を潜ませながら、なおかつ静謐な清らかさの衣裳をまとっている。それがまた個体を超えて未来へと開放され、その先まで果てしなく続いて行く、そういうサウンドである。

こういうサウンドを大衆演劇と組み合わせるのはかなり冒険かもしれないけど、でも大衆演劇ほどそういう残滓が刻印されている演劇はないんですよね。私がここまで大衆演劇に惹かれるのは多分自分の中に処理できない残滓を抱えているからだと思う。それを共有できる場がそこにあるからだと思う。言語を超えたところに、言説化できないところにサウンドの出番があるとしたら、人の(日本人だけではなく)深層意識によびかけるのに、こういうサウンドほど効果的なものはないのではないだろうか。それは男女差、年齢差、環境差を超越するものだから。