yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

毬谷友子、谷田歩in『令嬢ジュリー』@兵庫県立芸術文化センター 12月3日

いわずと知れたスウェーデンの劇作家ストリンドベリの代表作(1888)である。演出ならびに主演は毬谷友子、助演が谷田歩。1時間30分間休憩なしでの上演だった。

夏至祭りの夜、婚約破棄したばかりの伯爵家の令嬢ジュリーが、祭にも参加せず屋敷に残っている。そして料理人クリスティン(舞台には登場せず声のみ)の愛人、伯爵の下男ジャンを捕まえて二人で酒を飲み始める。

初めは女王様のように振る舞い、ジャンに難題を吹きかけていたジュリーだが、やがて二人の会話は濃密な迷宮の中に迷い込んでゆく。命令する側、される側という主従関係が何度も逆転し、混乱してゆく。

二人が情事をもったあと、さらに混乱の度合いが深まる。ジャンはジュリーにスイスに逃げ、コモ湖畔でホテルを経営しよう言い出す。かってその辺りで働いたことがあったともいう。そしてジュリーに金をもってくるようにと勧める。父親の引き出しをこじ開けて金を盗んだジュリーだが、ジャンが彼女がつれてゆこうとした小鳥を殺したところから、怯え始める。

夜が明けて、伯爵からの命令が届いた時点で、ジュリーはさらに怯える。ジャンは命令されたことをするために部屋を出て行こうとするが、そのジャンに向かってジュリーは自分がなにをしたらよいのかを「命令」してくれという。ジャンは髭剃りの剃刀を渡す。ジャンが部屋を出た後、剃刀を首にあてるジュリーで幕。

ネットで検索してみつけたサイト(http://www.petits-pois.com/Opera/opera_julie.php)の劇内容と今日のものは大分異なっていた。また、別のサイト(http://www.stone-wings.com/MISSJULIE.htm)の解説ともズレがあった。翻訳をした際、そしてそれをさらに現在にあわせてアダプトした際に生じたものなのだろうか。原作を読んでいないので分からない。

二つ目のサイトで、「これは、大人の芝居だ。この作品を観て何を想うかは人それぞれ。階級の崩れ出す19世紀末の時代背景、男女の間に横たわる永遠に解決できない溝…。そして伯爵の娘ジュリーは、美しく気品がある女優が演じることが求められる。その気品と美が無残に壊されてゆく、そこにこの作品のおもしろさがある」というコメントがあった。

これが原作の背景、意図を示しているとしたら、今日の芝居はその一部しか表現できていなかったことになる。単なる階級違いの男と女の葛藤を描いたもの、もっというなら、「性的欲求不満の若い女性が、その捌け口をしもべである若い男にぶつける話」といった域を超えてはいなかった。似た話は日本にもありますよね。谷崎の『春琴抄』、あれこそまさに主従関係を軸にしたサディスティックな性のキャッチボールを描いた作品だから。

「身分制度が壊れてゆく当時の不安定な社会を反映したもの」という点が、ごっそりと抜け落ちていた。もっとも貴族なんていない現代日本でそれを要求するのは無理な注文なのかもしれないけど。とはいえ、階級闘争的なものが背景にあるのなら、それをいささかでも匂わせる工夫が必要だったのではないだろうか。

残念だったのは二人の俳優。毬谷友子は単に婚期を逸したヒステリックな女としかみえなかった。それに比べると
助演の谷田歩の台詞回しはいくぶんかよかった。ただ、階級差を力で乗り越えようとする男のしたたかさを演じるには役不足といったことろか。

毬谷友子が宝塚出身と知っていたので、期待値が大きすぎたのかもしれない。というのも、以前、三島由紀夫のあの難解度ウルトラ級の『サド侯爵夫人』を渡辺守章が宝塚出身の女優さんたちを使って演出し、大成功だったから。このプロダクションはフランスでも絶賛されたというすばらしいものだった。

私はいわゆる新劇はあまり観に行かない。いつもがっかり、失望の連続だったから。それらの大御所系劇団に比べると、小劇場系はいくぶんかましかも。というのは小劇場系には伝統演劇の影響が明らかにみてとれるから。そして伝統に則った舞台作りが行われているから。また、商業演劇でもたとえば山田五十鈴や淡島千景、藤山直美といった芸達者たちが座長をつとめるところは、やっぱりこれまた伝統演劇を踏まえていて、面白い舞台をやっている。

いまひとつ思い当たるのは、いわゆる新劇も今日のお芝居も翻訳劇である点である。今日も感じたが、翻訳された台詞を舞台にのせて、人に感動を与えるのは不可能ではないか。ぎくしゃくして、不自然で、日本語の口調ではないから、そこで白けてしまう。

歌舞伎、浄瑠璃のことばが古い時代の台詞であるにもかかわらずそういうことを免れているのは、たぶんそれが日本語のエロキューションになっているからだ。耳に心地よいのだ。この点をしっかり研究して翻訳劇をしない限り、「不自然な劇」という問題は解決されないだろう。

蛇足だが、センターの中ホールがほぼ満席だったのには驚いた。観客の層がそろっているのは予想通りだったけど。皆なにを期待してきているのだろう。「文化活動」をしているという、つまり教養のために観劇しているのだろうか。あまり楽しそうに観劇しているようには見受けられなかった。もっとも中年層が多いから、彼らに大衆演劇の観客のような反応を期待しても無理かも。でも歌舞伎なら、もうちょっと楽しげな雰囲気なのにと思ってしまう。小劇場の観客ももっとアクティブである。アメリカでもイギリスでも観客はもっとわいわいしていた。こんなに大人しくはなかった。

そして、これらの人たちが大衆演劇の素晴らしさを知って通ってくれないかと熱烈に願った。ホントに日本人は変ですよ。お芝居って楽しむためのものでしょう。もっと楽しいお芝居をみてよ!日本人なら、私たちの血や肉となっている伝統の上にある芝居をみましょうよ!なんて思っていた。