主演のヴァネッサ・キルビーはすでにテレビ等でも有名な女優さんらしい。この舞台の成功は彼女の好演に負うところが大きいと思う。以下にナショナルシアターの公式サイトからの舞台写真をお借りする。
休憩なしの1時間30分。ナショナルシアターの3劇場中、二つ目に大きな劇場。ほぼ満員だった。以下に概要と公式サイトにアップされた解説を。
原作 ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ Johan August Strindberg
演出 キャリー・クラックネル Carrie Cracknell
ジュリー ヴァネッサ・キルビー Vanessa Kirby
ジャン エリック・コフィ・エイブレファEric Kofi Abrefa
クリスティーナ タリッサ・テイセリア Thalissa Teixeira
(役者の呼称に誤りある場合はご容赦)
Julie
August Strindberg's Miss Julie finds a new home in contemporary London, as Carrie Cracknell (The Deep Blue Sea) directs a cast including Vanessa Kirby (The Crown) and Eric Kofi Abrefa (The Amen Corner).
Wild and newly single, Julie throws a late night party. In the kitchen, Jean and Kristina clean up as the celebration heaves above them.
Crossing the threshold, Julie initiates a power game with Jean. It descends into a savage fight for survival.
チケットは昨日取ったばかり。ナショナルシアターでは毎週金曜日にキャンセルがあった席が売り出されると知り狙っていたのだけれど、こんなに運よく行くとは。驚いた。この『Julie』はほとんどの日がソルドアウト。だから、とてもラッキーだった。しかも前から3列目のセンター!役者さんたちの表情が手に取るようにわかって、舞台との一体感がハンパない。昨日、図書館のK先生と「やっぱりお芝居はStall(平土間)席ですよね」って意気投合したところ。彼女は前日にミュージカルの『アラジン』を同僚の方とドレスサークルでご覧になったとのこと。良席ではあるけれど、平土間席には敵わない。
とても斬新な趣向だった。それも先日の『マクベス』のような奇の衒いすぎはない。「素晴らしい!」というのには留保がつくけれど。ストリンドベリの傑作、『令嬢ジュリー』を基にした現代劇。登場人物間のセリフのキャッチボールがリアルで、そのままサイコアナリシスを援用できそうだった。
映画版はずいぶん前にDVDで見ている。これは素晴らしかった。また2010年に毬谷友子演出・主演の舞台を兵庫県芸文センターで見ている。大体のあらましはここに書いている。
あまりいい評をしていないのだけれど、主たる理由は主演の毬谷友子の年齢だった。当時48歳。ジュリーの年齢は20歳以上も若いので、ずいぶん「無理をして」いるのがこちらに伝わってきた。芝居によってはそれでも通用する場合はあるだろうけれど、この芝居は年齢そのものがとても重要だから。20代の終わり。微妙な(?)年齢。社会的に精神的に「大人になること」、成熟することを求められる年齢。しかしこの主人公は上流階級のお嬢様で、外に触れることはなかった。周囲は彼女を利用する、彼女の「奴隷」に甘んじる取り巻きばかり。彼らとは真に接触することはできない。さらには親への不信、でも親にすがることから抜けられない。未熟であることを自己認識しているものの、どうすればそこから抜け出ることができるのかわからない。不安と焦燥。置かれた環境だけではなく、年齢そのものからくる不安と焦燥でもある。これを出すには演者の年齢がとても大事だと思う。
時代を現代に置き換えているこの舞台、ストリンドベリの原作の背景にある階級間の対立を描くのにどういう形をとるのか興味があった。それは非常にわかりやすい提示の仕方だった。まず舞台装置。シャッター状の硬質な「幕」(上からがしゃんと降りてくる幕)、それは客席と舞台とを区切っているのだけれど、その幕が上がると、そこにはパーティの狂騒。若い男女が踊り狂っている。全員裸に近い状態。明らかに麻薬を吸っての狂い方。それが後景(別室)になる。これを表すのがまたしても前景と後景とを区別するシャッター。クレイジーなパーティは後景に。音は遠くになるけれど、狂騒は続いている。
すると前景にウルトラモダンなキッチン。シンクの他は食洗機、ガーベージ入れが何台も。パーティ客がつかった皿、残した残飯をそれらに放り込むクリスティン。わかるのはこのキッチンは食洗機、ガーベージ入ればかりでできていること。この異様さ!
しかもこの何台もある食洗機にパーティ参加者が入り、また出てくるんです。不思議な構造。手品でも見ているよう。不思議な空間を演出するためだろう。成功していた。クリスティンにとってはパーティ参加者(の汚物)は捨て去るもの。自身と隔絶させている。それがよくわかるのは彼女(明らかに学生)が課題をするために、後景を「無視して」勉強する姿である。彼女はブラジルから来た移民(実際にタリッサ・テイセリアはブラジル出身らしい)。階級差が示されると同時に彼女には目標があることが示されてもいる。ここにジュリーとの対比が。クリスティンは信心深く、教会に通っている。ジャンもクリスチャン。それを馬鹿にするジュリーとの対比。巨大な食卓テーブルもうまく使われていた。クリスティンが勉強をする机になれば、ジュリーがジャンを誘惑する場ともなる。以下は公式サイトにアップされているその「テーブル」。感じを掴んでいただきたくて、引用させていただく。
ジュリーとジャンとの間も永遠に埋まらない。ジュリーの運転手であるジャンが「狙って」いるのはジュリーの財産。ジュリーは「あんたはいつも金、金、金ね!」とジャンを罵るけれど、それは正しい。どこまでも噛み合わない会話。永遠に交わらない意味。交わるのは性を介在させる時のみ。追い詰められると麻薬を吸うジュリー。弱々しく、儚げ。逞しく、健康そのもののジャンとの対比は、特にその肉体の差は強烈。それはそのまま旧階級と新興階級との違いを示している?ジュリーにとってはそれは魅力でもあるけれど、恐怖でもある。「あんたはアニマルよ!」と侮辱の言葉を投げつつも、どこかでそれに溺れてしまいたいという願望が見える。
ヴァネッサ・キルビーはこの破綻した30歳の女、ジュリーになりきっていた(彼女自身の年齢)。あまりにも痛々しかった。最後のシーンで、やっぱり彼女が自殺してしまったことを知った観客から、「あーあっ!」という悲鳴が。違う演出もあるんですよね。でもそのあと、カーテンコールで「生きていた」ジュリーを確認できて、私たちはホッとしたんです。
劇評は概ね良好。以下に。