yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『上州土産百両首』in 「七月大歌舞伎」@大阪松竹座7月16日

以下に「歌舞伎美人」サイトから拝借したあらましを。

川村花菱 作

 

配役

正太郎                 芝翫
牙次郎                 菊之助
宇兵衛娘おそで        壱太郎
みぐるみの三次        橋之助
亭主宇衛                猿弥
勘次女房おせき     吉弥  
金的の与一       彌十郎

隼の勘次        扇雀

 

みどころ

 すりの子分の正太郎は、ある日、ドジだが愛嬌のある幼馴染の牙次郎と再会します。すりの性で思わず、牙次郎の財布をすった正太郎でしたが、家に帰ってから自分の財布もすられていることが分かり、牙次郎もすりだと気付きます。そこへ牙次郎が訪ねてきて正太郎に詫びを入れ、互いに足を洗おうと意見します。これに同意した正太郎は、世話になった与一の元を離れ、牙次郎と10年後の再会を約束します。時は流れて10年後、上州館林の料亭で板前となった正太郎は、放浪の身の与一と三次に再会します。正太郎は旅の資金として金を差し出しますが、与一はそれを断ります。しかし、三次が金をねだり短刀を抜くので、正太郎も包丁で身構えるのでした。一方、牙次郎は岡っ引きの勘次の子分になっていましたが、未だに手柄がなく、今夜こそ100両がかかった罪人を捕まえたいと願掛けしています。そして、今日は満願の日。遂に再会を果たす二人でしたが…。
 悲しい結末を辿る皮肉な運命の中に描かれた、男の友情が胸を打つ作品です。

 

大衆演劇の十八番作品を歌舞伎がやるというので、嬉しかったこともあり、「新春浅草歌舞伎」(正太郎=猿之助、牙次郎=巳之助)に乗った折に、この作品の背景を記事にしている。

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予想通り芝翫が良かった。菊之助は彼自身の強い希望で実現した役であったようだけれど、残念ながらニンからはいささか外れていたように感じた。凄みのある役柄にはその力量が遺憾無く発揮される役者であり、役の重みを常に身体に染み込ませ、それを演技として出すことに真摯な役者である菊之助。だから、こういう彼のニンとは必ずしも一致しない役柄もやってみたかったのだと思う。その挑戦する探究心の強さには脱帽する。でもこの問題は演技の巧拙、舞台の出来不出来の問題ではないような気がしている。それを超えた何かが足らないように感じた。 

大衆演劇ではそのアレンジ版も含めて10回以上はこの作品を見ている。たいていは『月夜の一文銭】というタイトルでかかる。大衆演劇の劇団では、演技の上手い人は座長にあと一、二人という慢性的「役者」不足。でもこの作品で失望したことがない。川村花菱の原作にきちんと筋が通っているから、いくら崩しても大事な部分はきちんと押さえられるというのもあるかもしれない。でもそれ以上にあの主人公二人の境涯と大衆演劇の役者との「近さ」、同質性が否応なく照射されるからだと思う。それは言葉を超えたもの。雰囲気とでもいうべきもの。現在の大衆演劇の置かれている状況は随分と改良されてはいるものの、やはり厳しいところに彼らは生きている。松竹のような大パトロンが庇護してくれているわけではない。その厳しさが、この作品の主人公二人が置かれた逃れられない環境と連動している。だから、極論を言えば、大衆演劇の座長級の役者が演じれば、その要素は自然と立ち上がってくる。

今まで見た中で最も良かったのは鹿島順一劇団の正太郎を蛇々さん、牙次郎を(夭逝された)順一さん(当時は虎順)が演じたものだった。また、都若丸劇団のものもかなりアレンジした喜劇色が強いものだけれど、良かった。正太郎を剛さん、牙次郎を若丸さんという配役。この組み合わせは最高だった。

立派な歌舞伎舞台セットでは貧と富の落差を際立たせるのは、かなり難しい。思いっきり汚く、みすぼらしくしてみても、その贅は自ずと見えてしまうから。でも、私としては、歌舞伎界きっての貴公子であり、サラブレッドの菊之助に、次にもこの役に挑戦してほしいと強く願っている。