yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

天と地を結ぶもの 羽生結弦さんの『SEIMEI』

「花は咲く」では、この世とあの世を繋ぐ美しい花の化身だった羽生結弦さん。それがステージを上げて、もう常人の手の届かないところに行ってしまったよう。そんな風に思わせられて、ちょっと淋しかったりして。

演技が始まる前の「晴明」ポーズ。それが観ている側の「不安」なんてものを、払い去ってくれた。羽生結弦という演技者というよりも、天界から導いてくれる師になったよう。ものすごい安心感、安定感。あくまでも師なので、下々のものが「心配」したり、「気遣ったり」するのは不要。そんな感じ。

他のスケーターたちがあくまでもアスリートであるのに対して、彼はその域をはるかに超えている。超絶技巧は超絶技巧なんだけど、それが魂レベルのものに昇華されている。ここが決定的に違う。

つくづくと思った。「陰陽師」を選んだのは当然の帰結だったと。「僕にしかできない」という彼のことば。日本精神を表現するというだけでなく、もっと違った意味があったように思う。霊界のメッセージをこちらに伝える役目を負った陰陽師。彼はそれを自覚していたのではと、深読みしてしまう。あの印を切るポーズのときの「きりっ!」とした威厳に満ちた表情。そこに今までにはなかった「覚悟」を感じるのは、私だけではないはず。

なんといっても演技の芸術性。「美」であれ「崇高」であれ、この世のもの(現世の具象)にあの世(超越界)を垣間見せるというのが芸術だというなら、羽生結弦というアーティストはそれを芸術作品という形にしてくれた。いくら感謝しても感謝し足りないまでに。

スケートもスポーツ。スポーツに芸術云々を持ち込むと、スポーツとしての完成度は下がるだろう。この難しい組み合わせ。その垣根を完璧に払拭。芸術にまで高めたスケーターとして、歴史に残るに違いない。でもそんな大文字の「歴史」ではなく、やっぱりもっと日常的な小さい時間の中で、私の中に、私たちのなかに「奇跡を起こしてくれた人」でありながら、「美しくも愛らしい」Yuzuとしてあり続けるだろう。あり続けて欲しい!

昨日午後4時ごろに神戸、御影にある「弓弦羽神社」に行って来た。なんと、8人ほどの人が訪れていた。その後からも次々と。一日でかなりの数に昇ったのでは。絵馬の奉納も山ほど。その半分は羽生結弦さんが「十分に力を出しきれますように」系の祈念を込めたもの。これだけの人たち、いいえ、この何百倍、何百満倍の人たちが、祈念しているんですよね。「SEIMEI」があれほどまでの強靭さを持っていたのは、当然かも。